声の住むところ

髙橋身空『黙って帰る まふミク中心プロセカ二次創作小説集』に収録。pixiv投稿作品の加筆・修正版。

《でさー、ドロッドロのスープになるまで……》
《ちょっと》えななんが制した。《いきなりキモいこと言わないでよ!》
《あはは、ゴメン。でもそうじゃん? 『私はなんともないですが?』って思ってるんでしょ?》とAmiaがおどけてみせる。《『いたって平穏な生活を、送っておりますが?』》
 聞きながら、ケトルを傾ける。
 マグカップに流れ込んだ白湯が湯気をあげて、私の手を湿らせる。
《送ってないし。ていうか、思ってないでしょ。そのときにはとっくに死んでるんだから》
《わかんないよ~? カエルのオバケがいてさ、そいつが……》という声が続かず、途切れた。

 底冷えがするような無音が口を開ける。
 Amiaが言葉を飲み込んだあとに残るこの冷たさを、私は知っている。
 消えたい、という感覚。

 でもAmiaはすぐに持ち直す。《……雪はどう思う? ズバリ、スープはものを考えるか!》
 反射的に「スープは考えないと思う」と答えた口が乾燥していたので、白湯を少し口に含んだ。
 温かい。
「でも、死ぬ境界付近は、わからないな」
 最初、三人に説明したときには気づかなかったが、そこがこのたとえ話のトリックなのだろう。作詞に使えそうだ。
《あのね。私がせっかく逸らしたのに、エグい想像させないで》

 そこにKが
《茹でられたカエルの気持ち、わかるかもしれない》
 と言いだすので、《マジで?》とAmiaが食いつく。けれど、勢いを失う。《……どういうこと?》
「死んだの?」と私も聞く。
《一部、死んだ。虫歯を放っておいたら、神経を取ることになった。二本》
《何それ!? いつの話?》とえななん。
《去年……もう一昨年か。えななんたちと知り合う前》
《痛くなかったの?》
《痛かったんだけど、気づかなかった》
《だって、食事は?》
《邪魔だなとは思った。だいぶ部屋が狭くなった、と思ってたら病院に運ばれた》
《全然意味わかんない……》えななんがショックそうだ。
《運ばれたって言ったけど、救急車じゃないから、大丈夫。遠くの家族が来てくれて、わたしが歩けないから、タクシーに乗せられて》
「大丈夫ではないね」と指摘すると、《うん》と認める。
《大丈夫じゃなかった。すごくひどかった。熱も出てたし》と言うKの声が暗くなっていく。《そのときに関しては、もっと言えないことがある……》
《言わなくていいよ》とAmiaが言う。
《だいたい想像つくし》とえななんも言う。
 私は何もわからない。
 わからなくては、まずい気がした。

     ⁂

 そういえば、首の構造ひとつ、私は知らない。

 両親と挨拶回りに連れて行かれた先で親族の噂話が始まったとき、私は玄関先に立ったままどうすればいいのかわからなくなった。父がきょうだい同士、私には顔もわからないような人々の近況について内緒話に興じているのを視界の隅に、とりあえず、リングの形をした紅白飾りの注連縄のほうを注視して、見ても聞いてもいないふりをした。
 そこに居はするけれど関心はないというふりをした。実際、関心などなかった。
 そういう場面をどうすればやり過ごせるのか、いつまで経ってもわからない。バッハのインベンションなんか頭の中で演奏すれば、二声だから思考のポートが二つ塞がって外界から隔絶され、何も知らないうちにすべて終わっていたとか、そういうことにならないだろうか。
 そうやって消極的に拒絶していても、叔父が「結局、家、建たなかったんだって」とささやくのは否応なく耳に入ってくる。声を潜めてはいるけど、それはもちろん大っぴらに言うことじゃないというニュアンスを込めているだけで、私にもしっかり聞こえるように調節されているのだ。
 見ていないし、聞いていない。
 知りたくもない。
「ええ?」と私の前に立つ父親が、叔父とは対照的な無遠慮さで驚いて、誰だかわからない親戚の名前を言う。さっきから歳の離れた従姉だという人の話をしていたから、その続きなのだろうとなんとなくわかる。聞いていないのに。
 叔父は「もう、大損害」とますます声を潜める。「そっとしておくしかないね」と続ける言葉に、わずかに侮蔑が混じっている。
 父親の背中が「親はたまんないだろうな」とぼやく。
 注連縄の下のほう、棚の天板に何に使ったのか、工具が転がっている。
 今これを手に取って、自分の首を一思いに―、というのはどうだろう。
 一思いにできるほど作りに詳しくないから、無理か。
 そんなことを私が想像しているとは、叔父も両親も、まさか思わないだろう。
 なんて考えれば優越感を稼げる。
 このやり方はいつでも使えるし、普遍的なので優れている。
 普遍的なものは、優れている。
 すると突然
「その点、まふゆちゃんは」
 と名前が出たので、反射的に「優秀で」か「美人で」かの分岐に身構えてしまう。これもいつまで経っても慣れない二択だ。慣れたくなかった。
 けれど叔父が言ったのはどちらとも違った。

「心身ともに健康でよかった。子供は健康で育ってくれるのが一番だから。そうすれば親としても、年取ってからも長く生きていかなくちゃいけないからね、安心なんだ」

「ありがとうございます」とにっこり返したあと、いま自分が何を言われたのかだんだんわかってくる。
 私の横でずっと黙っていた母親が口を開く。「そうよ、親の一番の願いは子供の健康なんだから」

     ⁂

 気がつくと、Amiaが本題に戻っていた。
《あくまでも将来的には、だけど。誰が作ってるのか、見てくれる人にわかるようにしていった方がいいんじゃないかと思って》
《クレジットだったら、つけないってKと決めたんだから今更じゃない?》
《えーと……ミクがすごく大事な存在だったのに、ボクたち知らなかったでしょ? それでこの前、あんなことになったじゃん? なんていうか、状況がだんだん悪くなっていく前に、誰かが不調に気づけたほうがいいと思って》
《そんな役割、ファンの人にやらせようっていうわけ? 本気で言ってんの?》
 ミクか。
 カウントダウンパーティーでは、お菓子なんか飲み食いして楽しそうにしていた。
 テキストチャットに文字を打ち込む。

   雪 離席するね

 静かにドアを締めて、足元の常夜灯を頼りに廊下を歩く。
 リビングを横切って、両親の寝室を通り過ぎたら、すぐに洗面所だ。
 だがタイミング悪く、棚のなかには換えの歯ブラシのストックが一本しかなかった。大抵、二本はあるところなのに。いまこれを持ち出してしまえば、翌朝もし両親が歯ブラシを換えようと思い立ったら、ストックがないのを見て不審に思うかもしれない。
 万が一にも、そこから芋づる式にミクのことが露見してしまうことになったら―、
 と諦めそうになったが、思いついて、暗くしたままのリビングで小物入れをそっと引き出してみる。父親は、出張先のホテルから無償のアメニティをわざわざ持ち帰ってくる癖が抜けないのだ。下品だからやめるように言っても聞かないので、母親が仕方なく保管している引き出しの中に、簡素なつくりの歯ブラシが数本、個包装に入って並んでいる。

 部屋に戻ってイヤホンを装着すると、まだ何か話している。
《お絵描き配信してみるとかさ~》
《私は、そういうのじゃないの》
「そうだ」私は切り出した。「歯ブラシと歯磨き粉、準備してきたよ」
《何? 歯磨き配信?》Amiaが適当なことを言う。《……え? やだ雪マニアック~……みたいな話? え? 今から? マジで何?》
「ミクに歯磨きさせる」
《ミクの歯磨き配信? いや、さすがに段階ってない?》
「ミクの歯磨き配信?」
《ミクの歯磨き配信!?》Amiaが大声を上げた。
 何を言っているのだろう?
「ミクの歯磨き配信……は、絶対に、させない」
《うん。びっくりした。アングラ感出てきちゃう》
「そうじゃなくて、セカイで虫歯になってしまったら」と口に出してしまうともう、恐ろしい想像がきりもなく浮かんでくる。
 私は表現を選んだ。「助からないよ」

     ⁂

 人形の帽子が変化していた。と思ったら、帽子のように見えたのはカウントダウンパーティーで使ったクラッカーだった。
 セカイの一隅にまだパーティーの痕跡が残っているのがわかる。かつてははるか遠くまでべったり一様だった空間のなか、そこだけが水際立っている。パーティーで出た塵やらが放置されているからということではなくて、去ったあとにも残り、わだかまる気配の濃さがそうさせているのだった。
 きれいに片付けたと思っても、完全に元通りにはならないのだ。

 どこからともなく現れたミクに、奏が「素敵な帽子をあげたんだね」と声をかけた。マフラーとブランケット、靴下と手袋に身を包んでいるミクは
「この子も温かいといいな、と思った」
 と言ってクラッカーを傾け直す。隠れていたマリオネット人形の顔が現れる。有名な昔話からの連想だろうか、人形の表情がどこか安らいで見える。
 絵名が黙って歩み寄って、ゆるみかけていたミクのマフラーを整える。
 瑞希にも「ミク、偉いな~」と頭を撫でられて、くすぐったそうにしている。
 クラッカーの帽子にものを考えさせる力が宿っているわけではないのに、人形が表情を帯びるのは不思議だと思う。

 ミネラルウォーターの小さな瓶と紙コップ、それから歯ブラシと歯磨き粉を抱えた私は、もう一方の手でミクの手を引いていく。背後から瑞希が
「あんまり遠くに行かないでよ~」
 と呼びかけてくる。振り向かず、頷きだけで返事した。
 壁のようにそびえるオブジェクトの陰に入ると、絵名と瑞希が何か話しているらしい声も、遮られてほとんど聞こえなくなった。その壁に背中をもたせかけて、ミクを抱きかかえるようにして座る。
 豊かな髪を両脇に流して、後頭部を私の首に当てた。思いついて
「マフラー、絵名には悪いけど一度外そうか」
 と促したが、顎の下から返ってきた答えは「いや」だった。
「汚したら悪いよ」
 と言っても首を振る。私が慎重になるしかないのだろう。仕方なく口を開けてもらう。
「このまま開けててね」と言葉でも指示しながら、左手の指で軽く歯を固定する。
「わかった」
「舌もおとなしくしてね」
「ん」
 学校で習った正しいブラッシングも、二人羽織みたいになると難しい。歯に対するブラシの角度を気にする以前に、そもそも歯と歯茎を区別することさえ、他人の口だと簡単ではない。けれど歯茎をいたずらに刺激して、万が一にも傷つけるなんてことは絶対にあってはならなかった。とりあえず前歯から始めてみる。
 しゅくしゅくしゅくしゅく、という音が自分自身のときと同じなので、少し安心する。壁のおかげなのだろうか、反響する音に合わせてミクの後頭部が小刻みに揺れ、つられて髪の房も私のカーディガンを撫でる。

 ミクは私と、頭のサイズが違った。歯のサイズも、頭全体のサイズも、ほんの少しだけ小さい。だから、自分の頭がミクの位置にあったら、というシミュレーションとは少しだけ齟齬が生まれていた。とても近いところにあるのに、少しだけ外にあって、頭の中にある地図と実際にあるものが一致しなかった。
 最近、電器店に寄ってペンタブレットを触ってみたとき、タブレットの小ささに反してディスプレイ上をゆうゆうと動くポインタを見たときに感じた変な気分に似ている。
 ずっと昔、右足の第二指と第三指が、指先の感覚からではうまく識別できなくて、見ながら触ってすら納得できなかったときの気分とも。
 歯の数を数えながら、隣へ、また隣へと移ってゆく。

     ⁂

 しゅくしゅくしゅく、しゅくしゅくしゅく、と繰り返される音はいつしか、練習を重ねていくとついに楽器を演奏しているのが自分の手なのを忘れてしまうみたいに、私の意志からも離陸した恒常的なリズムを刻んでいた。私の意志がもたらす運動から始まって、しかし皮膜を何重にも重ねるみたいに、順々に私ではないものを身にまとっていく。ますますやわらかく、はかなくなっていく皮膜たちの無数の重なりによって、ミクと私がなす対もやがては果てのないグレースケールの風景へと溶け出していくのだ。はるかな厚みをもった、歯磨きというひとつの環境だった。
 そうした厚みに身を浸している向こうから「まふゆ、苦しい」と聞こえて、私は目を閉じたまま、ミクの両顎を固定していた指を緩める。
「痛かった?」と聞いても、ミクの身体に反応はない。
 もう少しだけ指を緩めてみて、「ミク、これでいい」かな、と言いかけた。
 が、言葉が継げなかった。
 強烈な違和感を覚える。
 自室にある英和辞典の見返しに印刷された子音の一覧表が、白と黒の鮮明なコントラストをなしてフラッシュバックする。パステルカラーの口腔イラストがそのうえに展開されていく。調音部位。ベージュ色の舌。そしてほの赤い唇。

 でも目を開ければ、鮮明な白黒もパステルカラーも、このセカイにはない。
 弛緩した気配を感じたのか、ミクの眼球がきょろ、とこちらを見上げる。覗き込めば瞳まで見えそうだ。
 けれど私はまた目を閉じて、ゆっくり息を吸って、吐く。
 すり鉢状の器を気体が流れて、湯気が生まれて、ミクの額を湿らせているのだろうか、「まふゆ、くすぐったい」とミクが私の手の先で、口を開けたまま言う。
 唇を動かすことなしに。
 ミクが温かいといいと思う。
「もう苦しくない?」と尋ねると、「うん、大丈夫」とミクが答える。大丈夫、とも私だったら言えないだろう。
「苦しかったらいつでもすぐ言ってね? ミク」と呼ぶ私の、両唇が触れ合う。

 壁に体重を預けて、しゅくしゅくしゅくしゅく、と再びリズムをとり始めた指のことをもう一度忘れていくと、ふと腹話術人形を抱いているような想像が湧いた。私がこうして憑依することで、ミクはものを考え、表情を帯びるのだ。
 でもそうではない。ミクは確かに自分で話している。私と声の出し方は違っても。
 むしろ、抱いている私のほうが人形なのかもしれない。
 そして腹話術人形が抱かれるものなら、私は抱いていながら、抱かれているのだろう。

 一週間に一本なんていうペースで、歯ブラシを取り替えるようになったのはいつからだろう? ずっと昔は、そうではなかった。
 毎朝、ストックがないと不審に思われるかもしれなくなったのは、いつから?
 アメニティの歯ブラシなんて見向きもしなくなったのは。
 変わっていって、その変わっていき方すらも変わっていく。

 食事をしたら虫歯になるかもしれない。だから歯磨きをしないと助からない。
 歯磨きすれば大丈夫なはずだ。
 そのように考えることで助かっていたのは、私のほうだった。

     ⁂

 口をゆすいだ水が、音をたてて紙コップを叩いた。
「また磨きに来るね」
「うん」と答えるミクの表情からは、満足も不満も読み取れない。やっぱり無料の歯ブラシでは駄目だったのだろうか。
「今度は、もっといい歯ブラシを持ってくるよ」
 と慰めたつもりだったが、ミクの
「これがいい」
 という返答には、反対に頑なさがこもった。
「こういうのって、ふつう一回しか使わないんだ」
「これが、いい」とミクは聞かない。
 しばらくは、歯ブラシを保管しておかなければならないな、と思う。
 ずっとではない。歯ブラシというのは、そういうものではない。

 戻って、瑞希に声をかける。「スープなんだけど、考えてると思う」
「あっ、お疲れ。ごめん、何?」
「スープ。考えてると思う」
「ん、……あっ! 茹でガエルのやつ? えっホント? まふゆってそうなんだ。意外かも。いや本当に意外だけど、そうだよね!」瑞希のテンションが高くなった。なんだか不気味だ。言わなければよかったかもしれない。

 でももう遅くて、瑞希は二人まで呼んでくる。
「絵名! まふゆ、カエルスープは考える派だって」
「だから、スープの話しないでって言ってるでしょ!」
 と絵名は怒るが、静かになって「……じゃあ、まふゆは死んだあとも何かが残って、ものを感じたり考えたりしてるって、信じてるわけね」と神妙に質問してくる。
「死んだら普通、考えられないと思う」
 と答えると、「ほんっとに何言ってるんだか……」と呆れたふうだ。
 それでも瑞希のほうは上機嫌なままで、「いやー今夜はいいこと聞けたね! じゃあみんなこれで、おやすみ!」と言い放って自分の部屋へと帰っていく。
 絵名は「おやすみ」と見送って、私を見据える。「あのね。こういうのって、気軽にする話じゃないから。カエルじゃないけど、こういうところから変になっていくかもしれないんだから、少し気をつけてよ」
 そこに奏が「わたしは大丈夫」と口を挟んできたとたん、「まふゆにとって必要なら、私も少しは付き合うけど」と露骨にトーンダウンする。なんなんだろう?

 奏が「何か、考えが変わるようなことがあったんだね」と尋ねてくるが、ミクの声の出し方のことを、どう話していいかわからない。
 それ自体はちょっとした、本当になんでもないことで、でもそのことを話そうとすると、カウントダウンパーティーから始めたとしても、ミクとの出会いから始めたとしても、もっとずっと前から始めたとしても、私にとって持つ意味をうまく表現できそうにない。
 きっとこれは、私とミクの間だけの秘密なのだと思う。