黙って帰る

髙橋身空『黙って帰る まふミク中心プロセカ二次創作小説集』に収録。pixiv投稿作品の加筆・修正版。

     1

 私が小さな頃には「ガラケー」というものがあって、電話機なのに二つ折りで開けば片側は小さなディスプレイ、反対側には物理キーが敷き詰められていたというから、今でいう電子辞書みたいなものだろうか。
 なんていう連想は間違っていて、インターネットで検索すれば「電子辞書VS紙の辞書」みたいな古い記事がいくらでも出てきて、電子辞書のすがたが昔からそれほど変わらないことがわかる。
 だから「今でいう電子辞書」と表現してしまうのはおかしい。私にとってガラケーは遠く、電子辞書は近い。それだけのことだ。
 で、そういう間違いを起こすのは、私がまだそれほど生きていないからだ。
 私は大して何も知らない。
 頭ではそうやってわかっていても、ガラケーと電子辞書を結び付ける直感は消えてくれない。むかしむかし、電子辞書は電話番号を振られて管理されていました。かれらは不自由でした。終わり。

 もちろん両親もガラケーを使っていた。
 昔住んでいた家のテーブルの白い天板から浮き上がるように、二つ並んで青色と緑色の、不純な結晶のような塊が転がる。幼い私の目には、鍵みたいに見えた(たぶん、幼稚園の職員室の壁に吊り下がっていたキーホルダーからの連想)。
 二つのガラケーは、あるのかないのか判然としない、ぎりぎりのところに属している。
 くすんだ白を地として配置された青と緑のすがたは、私が回想することによって繰り返し上塗りしてきたもので、特定の光景に根ざしているのか、あとからいろいろな記憶をブレンドして作り上げたものなのか、わからない。
 どうしてそんなことを考えたのだろう? 

 毛布から頭を出す。
 世界から弱音器が取り去られる。
 つけっぱなしのパソコンや空気清浄機、アクアリウムが立てるかすかな振動音が、一瞬にしてあたりを満たす。部屋の照明をすべて消していてもなお、常駐ソフトがCPUを稼働させ、温度センサーのループ処理が回り続けている。行きつ戻りつする交流電流のテンポは、私の呼吸よりも、鼓動よりもずっと速い。安全で快適だということになっている私の部屋を満たす、無感覚な判断の奔流―そこに今日は、雨のノイズが加わっている。
 ベッドの縁に指を沿わせると、雨粒が屋根にもたらすかすかな打撃が、一瞬のうちに壁からベッドへ、そして指先から私の身体へと伝わる。
 私は雨の打撃を感じている。
 私は雨に打たれている。
 呼吸はもう、落ち着いていた。

 どうしてそんなことを考えたのかといえば、さっきミクに話してきたからだ。両親のガラケーと同じように、あるのかないのかわからないところに属している記憶を。
 雨が降るたびに思い出して、上塗りしてきた記憶?
 というのも間違いで、思い出すきっかけが雨だっただけだ。
 私とは関係なく渋谷に雨は降って、でもたいていは晴れていて、そうした一切を私は忘れてしまう。
 それだけのことだ。
 セカイでは雨が降らないから、思い出すこともないだろう。

     ⁂

 初めは天地もわからない。
 張り詰めたグレースケールの広がりに投げ出されてじっとしていると、ひとつの輪郭を認める。動いているけれど、音はない。でも動いているのだから私の同類で、私と関係をもっている。にいたのだ、とわかる。するとそれに呼応するみたいに―、
 平均すればやはり灰白色の領域が振り向いて、こちらを認める。

 まず、白いな、と思う。

 たゆたいながらズームアップしてくるそのすがたは、いつのまにか一面に展開しているオブジェクト群とは明らかに異質だ。しだいに赤いリボンと、相異なる色をもつ左右の瞳が彩度によって際立ち(本当はそれから、緑色の爪がある)、その正体を現す。紛れもなく、ミクが歩いてきている。
 、私も歩いている。縋るように、一歩ずつ。
 両脇にまとめたふくらかな髪のかさ、そこに内在するリボンを振り切ってしなろうとする力、植物の生長過程をとらえたタイムラプスのなか、間欠的に照らされながら身悶える肥えた茎のように、波打っては横顔の後を追う。その勢いにも動じることなく、シアンマゼンタの視線がまっすぐに私を射通す、その鋭い光沢。そのまわりに広がる、固く塑造されているわけではない、ただ動かし方を知らないだけの、表情の薄いこわばり。春先の湖面のような、頬に潜在する温かさの予感。唇の穏やかな結び。それらすべての断片が、しだいに私を侵食する。
 私にはないものだから。
 初音ミク。
 髪がつくる両の茎がしなだれた先、階調をなしてわずかに差し込まれた色味が、かろうじてその名前を証し立てているのかもしれない。首元に締められた赤いリボンから、ハーネスへと続く装飾には、絶え間ない緊張が宿っている。やはりグラデーションになったワンピースが、揺動にあわせて視界に明るさの波をつくる。一方が素足であることによって、歩みは少しも妨げられない。ここでは冷たさを感じなくていいから。
 それとも、私を真似ているだけだから。
 一歩ごとにみるみる、私たちの到着地の可能性が刈り込まれていく。
 いやな場所はいや。
 いやじゃなくて、本当によかった。
 ひとしきり寄り添いあって、別れるまで続く感覚。

 そして私はミクに話し始めた。

 雨のことは前に教えたね?
 今日、雨が降ったよ。
(降ってるな、って思った。)
 昔、ひどい雨に降られたんだ。
 私がすごく小さい頃の話。

「まふゆが、すごく小さい頃?」とおうむ返しにして、ミクは両手で「お花」を作った。

 ……そんなに小さくはないよ。
 ミク、私は夜の道で、雨に降られている。
 何かの帰りかもしれないね。
(ピアノの帰りかも。)
 でも、鞄も持ってないし、傘も持ってない。

「傘がないときは、雨宿り」ミクは、一度教えたことをおそろしくよく覚えている。

 そうだね、雨宿りすればいい。
 だけどいま、私は一人で、なすすべなく降られている。

「どうしようもないの?」とミクがやさしく言う。

 どうしようもないよ。過去のことだから、と触れ合う肩に少しだけ体重を預ける。その横顔を、間近にじっと見ようとして、やめる。
 ミクは隣にいても、あらましはやはり白い。けれども詳しく見ようとすると、かけらのような細部にばかり気をとられて、ミク全体のことはわからなくなってしまう。だから私は、ぼんやりと形を捉えるしかなかった。

 というところまで思い出して、ベッドの中の私は考える。
 それとも、絵名や瑞希は違うのだろうか? 絵画や立体造形を行う二人なら、ミクのすがたも全体的に捉えられるのだろうか。
 けれども今は二人は関係ない。
 ミクの隣にいる私は、続きを話す。

 すると、自動車が減速して近づいてくる。
 開いていく窓から顔が覗いて―、
 大丈夫? って言う。

 つられてミクも首を傾げて、「大丈夫?」と繰り返す。
 私の記憶を再現するようにも、話している私に改めて問うているようにも見える。
 二重の質問だということにして、私は両方に答える。

 大丈夫じゃないし、大丈夫じゃないよ。
 こういうときって、危ないんだ。
 知らない人についていっちゃ駄目。

「ついていかない」というミクの声にかすかな決意がこもって、私は満足感を覚える。

 電話を貸してください、って頼んだら―、
 スマートフォンを差し出してくれた。
 そのとき私は、ミク―、
 これを投げ捨てたら何が起こるかな? って思った。

 今思うと、夜道で一人で雨に降られて、誰かにスマートフォンを貸してもらって、家族に連絡したという出来事は実際にあったのかもしれないけれど、もうよくわからない。身体に刻み込まれているのは、「これを投げ捨てたら何が起こるかな?」という思いつきだけだ。あとの部分は、この言葉を核にして膨れ上がった物語にすぎないのかもしれない。
 そんなお話も、もう終わる。

 ミク、あのとき投げ捨ててたら私、ここには来られなかったと思う?

 問いを乱暴に投げつけて、私は待つ。
 ミクはしばらく黙ってから口を開いた。

「……心理テスト?」

 夢のなかの純化された感情に似た、鮮やかな衝撃。

「心理テスト、ではない……かな」
「そうなんだ。まふゆ、どうしてセカイに来られないと思ったの?」
 そう逆に聞き返されて、言葉に詰まる。
「……わからない」
「スマートフォンがないと、セカイに来られない?」
「そんなことないよ」
 不毛な会話に私は苛立つ。わかりきったことを聞かないでほしい。
「ミクは最初、パソコンに来たよね」
「……やっぱり、どうしてセカイに来られないのか、わからない」
 苛立ちに任せて、私は言ってしまう。
「あのとき投げてたら、このセカイは生まれなかったかもしれない」
「まふゆ、」ミクが遮った。「まふゆの想いがセカイになったんだから、セカイはあったんだよ」
「そうじゃない。私がしてるのは、昔の話」
「セカイはあったんだよ」とミクは聞かない。
 何を言っているのかわからなかった。
「セカイができたときに、ずっと昔からあったことになった、ってこと?」
「ううん、セカイはあったよ」

 呼吸が苦しくなるのを感じた。切迫感によってか、私は子供のように食い下がった。

「じゃあ、スマートフォンを投げ捨ててたら、私は想いを失ったんじゃないかな」
「まふゆ、スマートフォン、投げたかった?」
「投げたらどうなるんだろうと思った」
「どうなると思った?」
 私は思いついて言った。「ミク、善意って知ってる?」
「……善意」
「人の善意を裏切ると、心がなくなるらしいよ」
 ずっと前に、そう母親が言っていた。そんな言葉を今度はミクに聞かせて、私は何がしたかったんだろう?
 ミクは黙ってしまった。
「そのほうが楽だったかもしれないね」
 追い打ちするように付け加えても、ミクはもう何も言わない。
 ように見えた。

「まふゆ、悲しかった?」ミクが唐突に尋ねた。
「わからない。どうしてそんなこと聞くの?」
「心理テスト」

 強烈な不快感を覚えて、私は言う。
「直接聞いたら、心理テストにならないよ」
「そうなんだ」
「心理テスト、禁止ね」
「わかった」
「奏に教わったの?」
「そう」ミクはあっさり認めた。「わたしがまふゆの想いから生まれたなら、まふゆのことがわかるかもしれない、って言ってた」

 また来るね、と言って私は音楽を止める。
 するともうそこは自室で、崩れ落ちるように照明を消してベッドに潜った。

     ⁂

 サークルに出る前に、仮眠を取ることが増えていた。
 奏たちをセカイに出入りさせるようになってから、ミクといても以前ほど休息できなくなったように感じる。今日のように息苦しくなることはなくても、無心に安らうことができなくなった。仕方なく部屋に戻って暗くし、25時になるまでベッドに横たわっている。それでも欠落感は埋まらない。
 どうせ何も生きていないと思って(水草は生きている)、アクアリウムの電源を止めてみたりもした。淡く光ったり、泡が整然と音を立てたりしているだけでも、うるさすぎるのかもしれなかった。というのは理屈で、本当は八つ当たりのように止めたにすぎない。結局、水を換えて、もう一度動かす。
 静止したセカイの中でただ一人、ミクだけが反応を返してくるのと、自室でアクアリウムだけが動いているのは似ているだろうか?
 私が空っぽなのと、アクアリウムが空っぽなのは似ている。
 ねじれた入れ子のような関係がある。

 それでもやはり、ミクと二人で身を寄せ合っている間は、ミクが座っている側に少し感覚が戻ってくるように感じた。内部に勾配が生じることで、身体が確かに存在しているのだと実感できた。
 たとえば雨に降られて身体が冷え切ると、肌の上を水滴が流れるのだけがかろうじて温かい、という状態になる。それも、温度差という勾配によって感覚が生まれているわけだ。
 それと同じだよ。
 部屋を暗くしていてもまぶたがちらちらするのは、パソコンのLEDの明滅だろう。何かで覆ったほうがいいのかもしれない。布で覆ったアクアリウムは、ライトが内側から水草を透過し、穏やかな緑色に映っている。かれらは生きていて、光合成している。
 ミクは光合成しているだろうか?
 奏は光合成していない。
 そういえば、カップラーメンを食べたことがない。
 スープを飲むとよくないのよ。

 母親は昔から用心深い人だった。
 塾がある日、母親は自分のスマートフォン端末を目立つ袋に入れて、みずから通学鞄に差し入れた。四年生まではまだ塾が週二回だったし、前の家には固定電話を引いていたから、手放しても不便は少なかっただろう。私はそれにけっして触ることなく日中を過ごした。学校が終わって、街に出ても、スマートフォンは無いのと同じだった。遊びに使えるということなんて、知りもしなかった。塾が終わって迎えを呼ぶ段になって、初めて取り出す。
 どれだけ気を付けても足りないくらい危ない物なのだ、と教えられていた。高価なものなのだとも。袋の中からずっしりした筐体が現れると、自分の価値の文字通り重心が、母親のスマートフォン側に傾いたように感じた。
 幼い私はスマートフォンを手渡されて、そういう価値の勾配を感じたのだろうか?

 そうやって他人に好意を差し出されたときには、タイミングよく応答しなければならない。適切なタイミングで適切な価値の応酬をするゲームを、みんな行っている。
 で、賭けられている好意が一番高まったときに台無しにすると、巨大なナンセンスが生まれる。裏切られて悔しい、とかそういうことを超えた、圧倒的な無意味だ。そうなるともう、何が起きるのかわからない。セカイが消えたり、私が消えたりしてもおかしくないような、無意味。
 そういえば、絵名はそういうタイミングが見えやすい。好意が差し出されたときの、カチ、カチと押したくなるような、身体にフィットした心地よさというのだろうか。なんだか、そういうものがある。
 たぶん瑞希も、それが面白くて、一緒に街に遊びに出たりしているのだと思う。
 この街ではあまり雨が降らない。
 中等部のとき、弓道部で冬の北陸地方に合宿に行ったことがある。
 雨続きで、地理の授業で習ったとおりだと思った。
 温度や湿度が変わると、それだけで矢の音が変わる。
 離れた場所には、別の音がある。

 いつのまにかボイスチャットが始まっている。
《25時だね。始めようか》
《お疲れさま》
《お疲れ~》
《絵名も瑞希も、もう入ってるね》と奏が言う。《まふゆもいる?》
《うん、いるよ》私は嘘をついた。

     ⁂

 目が覚めて時計を見るとまだ、25時には少し間がある。再び目を閉じてみても眠れそうにないので、諦めて机に向かうことにした。少しは休めただろうか。
 まとまった問題に取り組む時間はないので、小さい単位での訓練にする。手数の多い定積分の、計算練習。面倒な計算で間違わないのが医学部受験では重要らしい。これも母親が言っていたことだ。
 計算量を見積もって、十分で三問を目標にする。

 部分積分を二回繰り返すもの。
 そういえば今日、クラスの子が「朝比奈さん、英語できてすごいよね。どうしたらできるようになるのかな」と聞いてきたが、「とにかく読んで、解くって感じかな」としか答えられなかった。それは本心で、文法と単語さえ押さえていれば英語の試験なんて子供の遊びみたいなものなのに、周りの子たちはなんでやらないんだろうと思っているが、それは言えない。
 朝比奈さんらしいね。ほんとすごいよね。終わり。

 分母の二次式を平方完成し、逆正接関数アークタンジェントを微分した形にするもの。
 もっと英語の実力を伸ばしたいと思っています、と進路指導教員に相談してみたら、有名なトップ進学塾が編集した単語帳を薦めてきた。それは終えた、と伝えると教員は感嘆してみせた。それ以上となるともう、国内の大学受験に関してはオーバーワークらしい。それでもニュースなんかを読もうとするとまだ難しいんです、というこれは率直な思いだったのだが、教員は困惑を隠さなかった。その通りで、本式の英語とはギャップがあるけれど、そういうのは大学に入ってからでも構わないんじゃない? いろいろ忙しいだろうし、と歯切れが悪い。
 それとも海外進学を考えてる? もしそうなら全然話が違ってくるから、決めるなら早いほうがいいよ。終わり。

 パラメータ変換後の形に絶対値が含まれるため、積分区間の途中、正負の変わり目で分割するもの。
 現行の高校数学の科目に「行列」の単元はないが、大学に入ったら必ず使うことになるからやっておくといい、と父親が言った。母親も、なんの役に立つかわからないから、なんでも経験しておくのはいいことだと言う。平面図形の回転と拡大・縮小に関する問題は「複素数平面」と「行列」のどちらかで扱われるけれど、入試ではどちらの知識を使って解いても不利に採点されないらしい。
 受験する人間がすべて、普通の高校の教育課程を経ているとは限らないからな。
 いるだろう世の中には、帰国子女とか。
 それに、無駄なことは二年生のうちに済ませておいたほうがいいのよ。
 三年生になったら受験に専念することになるでしょう?
 終わり。

 パソコンから鋭い通知音が飛んだ。25時だった。

     ⁂

 計算と同じで、作詞作業も手が律速段階でなければならない。
 そうでなければ時間の無駄だし、肝心なところに頭を使えない。
 ナイトコードのチャンネル右上端のメニューから「Launch Web GUI」を選んでクリックするとデスクトップアプリが引っ込み、代わってWebブラウザに新しいタブが起動して、「新曲(仮)」チャンネルに対応するナイトコードストレージサイトのフォルダ画面が表示される。
 KがアップロードしたプロジェクトファイルをダウンロードしてDAWに読み込み、並ぶノーツに目を走らせながらデモを聴いて、五線紙に聴音する。といっても、リズムと旋律が上行か下行かだけ拾えれば、さしあたり十分だ。フレーズ単位に音符をグループ化して、モーラ数をメモする。
 できたらスマートフォンでPDFに撮る。後から印刷すればいい。ここまでは自明。

 ボイスチャットの音量を上げると、えななんとAmiaの雑談が聞こえてくる。
《でも、私のことずっとフォローしてたらわからない?》
《まあ、えななんとフォロー関係にあるっていうのはある意味リスクだけど?》
《……どういう意味》
《うーん……》
《あと、自撮りアカは別に裏アカじゃないって何回言わせんのよ》
《ゴメン! ……今度なんかおごらせてください》
《パンケーキ》
《承知しました》
 私は思いついて言った。
「罰金を課すと、罰金で許されることを当てにして不正が横行するらしいよ」
《パンケーキは罰金じゃなくてボクの気持ちだからいいの! えななん、詳細はDMで》
《弟の分とで二個ね》
《なんで!?》
 聞き流しながら、事前に用意しておいたテーマ語彙リストから使えそうなものを残し、Kにメッセージで送って、今日の私の作業は終わりだ。

 で、会話が途切れたところで、私も話す。何か話でもしないと、やりきれなかった。
「そうだ」と言えば流れをリセットできる。「最近、学校でちょっとおもしろい子がいるんだ」
《うん……おもしろい!?》とAmiaが大声を出す。《ついにおもしろいって言った!》
 うるさい。
「なんだか、積極的に話しかけてしまうというか」
《ふーん。良かったんじゃない?》とえななん。《まあ、ほどほどにね? あんた、リアルでも重いんじゃないでしょうね》
 私は無視した。「他の子にはない、独特の感じがあって……とても、明るい」
《あはは、光に向かっちゃうって感じ?》とAmiaが笑う。
「光? 虫みたいに?」
《いや、そういうことじゃないけど》
「光か……」言われてみると、思い当たるところがあった。「うん。私より明るいし、すごく足が速いんだ」
《いや、大抵のヤツはあんたよりは明るいでしょ……ていうか、体育祭の時の子? 一緒に二人三脚に出たっていう後輩の。前、話してたじゃない》
「そうだっけ。Kには話したと思うけど」
《ちょっと雪、ひどいな~ボクたちもいたよ~! 大丈夫? ボクたちのことカウントしてる?》
「? 四人」
《……あー、なんかゴメンね?》
「大丈夫。気にしなくていいよ」
《雪、》と作業開始ぶりにKの声を聞いた。《いいと思う。このまま進めて。来週くらいに全体が見えればいいね》
「わかった。じゃあ、落ちるね」もう私は満足していた。

《待って。ラフ見てから出てって。K、画面もらうね!》とえななんが言って、自分のタブレットの画面を共有してくる。
 私の画面は私のものなのに、どうしてもらったり取ったりできるのだろうか?
《あっ、じゃあボクも修正したから見て。今ので素材に使おうと思ってるんだけど》
 そういえばさっき、Amiaもチャットに動画を投稿していた。ストレージサイトを読み込み直すと、Amiaが投稿した「Vrough02.mp4」がファイルリストの先頭に来ていて、バージョンが2.0から3.1に上がっている。マイナーバージョンも上がっているということは、チャットに投稿したあとAmiaは気が変わってさらに動画を編集し、ストレージ上に直接アップロードし直したのだろう。
 そうすればチャット上のプレイヤーから再生される動画も、メジャーバージョン内の最新版に切り替わるからだ。デフォルトではオフだったのを、あとから加入したAmiaの要望でオンにした機能。
 あとから入ってきたものが、もともとあったものを変えてしまう。
「Vrough02.mp4」をクリックすると、バージョン2.0をKと私が閲覧した履歴が並ぶ。えななんは見ていないのだろうか? Amiaの課金ユーザーであることを示す枠付きアイコンの下に、プレイヤーが表示される。再生すると、数秒のうちに白い立方体が崩れて掻き消されていく。前回からどこが変わったのか、わからなかった。

 なので、イラストの方にコメントすることにした。
「色が少ないね」
《それは、そういう絵だから……増やすとまた、テイストが違くない?》
 テイストか。「そういうの、よくわからない」
《は? あんた、すぐそれ言いすぎ》
 また「は?」って言ったな、と思う。私がチャットにいる短時間でこれだから、毎日二、三回は言っているのかもしれない。ざっと一年と思うと、そろそろ千回に達していてもおかしくない。それだけの積み重ねがあるとも、その程度だともいえた。
《大丈夫なの? 声に元気がないんだけど》
「そうかもしれない。じゃあごめん、やっぱり落ちるね」
《わかった。おやすみ》と不承不承という感じだが、えななんが言う。
《おやすみ~》とAmia。

 Kの声がしないので、テキストチャットにも投稿しておく。

   雪 今日は落ちるね

 に対してKとAmiaが「了解」、えななんが「りょ」のリアクションをつけた。
 と思ったら、Amiaも「りょ」に重ねてきた。
 最近、えななんがつけるリアクションの傾向が変わってきたと思う。
 調べると「了解」の略らしい。常識的なことらしいが、見たことがなかった。
 私は大して何も知らないのだ。

     2

 食事を取るたびに、人体が物体にすぎないことを実感できる。
 噛んで崩して、そのあともどんどん崩して、取り込むわけだ。

 どういうわけか、料理というのはずいぶん手間をかけてかたちを作ってから、崩すことになっている。それが愛情なんだとか言う人もいる。どんなに礼儀正しく食べようと、崩すのはあっという間なのに。あっという間に壊すために時間をかけて作るという、その落差がおもしろいのだろうか。
 ある夫婦がいて、丹精込めて育てた一人娘を賭け金にしてギャンブルをしました。かれらは大勝利しました。終わり。
 そういう私として育ったのが、これまたどういうわけかこの私だ。どうしてだろう? と疑問に思うことがある。
 どうして私は優秀ないい子なんだろう? というのとは違う。そんな疑問に対しては、望めばいくらでも説明をつけられる。
 環境や才能。
 良い習慣とたゆまぬ努力。
 呪い。
 私が知りたいことは、そういう説明を許さない。
 どうして優秀ないい子になったのが、この私だったんだろう?
「ごちそうさま。とってもおいしかったよ。いつも作ってくれて、ありがとう」
「こちらこそ、褒めてもらえるとうれしいわ」
 私は両親にとっての当たりくじなのだろう。けれども、私はどうだろうか? 私自身は、私として育ったことによって当たりくじを引いたのだろうか?
 わからない。
 それはもう比喩の限界を超えている気がする。
「それじゃ、行ってきます」
「今日は毎週、早いし遅いしで大変ね。気をつけて行ってらっしゃい」
 けれど、たまたまここにあるというだけで尊重してもらえて、食事だなんだと便宜を図ってもらえる、この身体はある意味、頼りになると思う。

 登校途中にコンビニに寄って、昨夜のPDFをとりあえず二部印刷した。どこに何モーラの言葉を入れればいいか、一目瞭然だ。けれど私以外が見ても、これが何なのかはわからないだろう。万が一他の人間に見つかっても大丈夫なように作っていた。
 背後で自動ドアが閉まり、また街頭を歩く。コンビニに寄るというわずかなバリエーションはあっても、毎日同じルートで通学していることに変わりはなかった。
 そういう繰り返しに沿ってなのだろうか、毎日ふと、同じことを考えてしまう。
 こうして手をかけて育ててもらったのを、裏切りを超えたナンセンスにまで帰結させるには、どうすればいいだろうか?
 言うまでもなく、答えはわかっている。壊れるために育つのだ。というか、すでに壊れるところまでは達成した。あとは突然消えればいい。
 当たりくじが急になくなって、みんなびっくりだ。
 けれど、と今日もまた、その答えを否定する。それでは駄目なのだった。

 結局否定するとわかっていることを、しかし毎日繰り返し考えてしまう。そうやって消えることが、解放だと思う日さえあった。一度は「糸を切ってくれた」という希望とともに捉えたはずの「解放」という言葉が、そうやって簡単に反転してしまうのはどうしてだろう? 言葉がもつ、こういう仕組みはおもしろいと思う。けれど今の私は、まだそれに振り回されているように思える。私を見つけるために使わなくてはならないはずの言葉がもつ、単調な絶望へと引き戻す力のなすがままになっている。
 OWNとして曲を作っても成果が上がらなかったのは、そのせいではないかと思う。
 抑鬱的思考を垂れ流せば、文字数は増えるし、尺は埋まる。発表すればすごいと思ってもらえるし、共感だってしてもらえるらしい。こんなに簡単なことなのに、どうしてみんなやらないのだろうと思う。
 けれどそれでは私の音は、伝わらなかった。私を見つけることもできなかった。
 言葉のそうした力は常にそこにあるもので、目を向けさえすればいつでも直視できる。それは死が避けられないのに似ている。目を向けるだけなら、子供にでもできる。抑鬱的思考こそがもっともありふれている。
 ありふれていない歌詞を作ろうと思う。そこに本当の私があるはずなのだ。

     ⁂

「朝比奈さん、ちょっといい?」と手招きされる。何ていう子だったっけ? 二年に上がったときにクラスが替わったから、だいたい覚え直しになってしまった。
「軌跡・領域の、この問題ね? 解と係数の関係を使って解くんだと思ってたんだけど、うまくいかなくて……」とノートを差し出される。何か頑張って式変形をしているようだが、同じところをぐるぐる回っているだけで、証明は一歩も進んでいない。「解と係数の関係で、条件を書き換えたら次は判別式だったよね?」
「問題を見せてもらえるかな? ……これは与えられた条件が、対称式じゃないね」
「対称式?」
「そう。解と係数の関係から手に入る情報は、二次方程式の解がαとβだったら、α + β と αβ でしょ? こういう基本対称式を足したり掛け合わせたりして組み合わせても、作れるのは対称式だけ」まで言ったところで、相手は対称式という言葉の意味がわからなかったのだと悟る。「つまり、二つの文字を入れ替えてももとと同じになる式なの。でも今回の条件はu = x + 2y だから、xとyを入れ替えると2x + yになって、もとの形から変わってしまうね。つまり対称式じゃない。だから、同じ解き方はできないんだ」
 そう言うと、その子は「……じゃあ、どうしたらいいの? αとβを……」と言いかけたまま黙ってしまう。
 後ろ歩きで、黒板にゆっくり近づく。「解と係数の関係のことは一度忘れて、どういう問題なのかちょっと考えてみようか」チョークを取って、黒板に二つの二次元座標軸を描く。x-y平面と、u-v平面。

「たとえば、x-y平面の原点 (0, 0)がどこに動くかって考えてみよう。u = x + 2y だから0、v = xy だからこれも0。つまり、u-v平面の原点 (0, 0)に動く」と言いながら、いま口に出したばかりのuとvの定義を黒板に書いていく。
「もう一個、例ね。(x, y) = (1, 1) だったら…… (u, v) = (3, 1) に動くね」と、二つの座標に点をプロットする。
「じゃあ、質問。 (x, y) = (0, 1) はu-v平面のどこに動く?」と質問を投げかけながら、覚えてあったxとyの条件をチョークで素早く書きつける。0 ≦ x ≦ 1 かつ 0 ≦ y ≦ 1、すなわち一辺1の正方形の領域。
「……(2, 0)」
「いいね、正解!」大丈夫そうだ。
 と思ったところでその子はさらに続ける。「あっ、待って。じゃあ、xとyが動いたら、x + 2y は0から3までだよね。で、xy は0から1まで。ということはできる領域は長方形? 横3・縦1の」
 私は黙って聞いている。
「あ、でも (x, y) = (1, 0) は (u, v) = (1, 0) に動くから、端っこの四点を結べばいい? だから四角形? じゃなくて今回は、三角形になるのかな?」
 そこからだったか……。求める領域は与えられたx とyの条件にたいする必要条件を表しているなかで最小のもの、などと言っても仕方ないだろう。
「端っこの四点を結んだ四角形が答えになるのは、uとvが両方、xとyの一次式の場合かな」と、とりあえず言って時間を稼ぐ。

 自分自身に教えるように学べばいいのよ。
 そう母親は言っていた。
 かつて私はどうやってこれを納得したのだろう? 軌跡・領域という単元の考え方を、どうやって自分自身に教えたのだろう?
 私は小学生の頃の記憶を呼び出す。
 私は小学生になる。

 特別な筆がありました。
 こちらの世界に絵を描くと、向こうの世界にも絵が描かれます。
 けれど、そのときに形が変わります。
 大きくなったり、小さくなったり、歪んだりする。
 同じところに何回も描かれて、形がつぶれてしまうこともあります。
(だから、こちらと向こうが一対一に対応するとは限らない。)

 その筆を使ってることを知らないで、正方形を塗ってみました。
 向こうの世界にできる絵は正方形では全然、ありません。
 でも向こうに何か描いてあったら、それはこちらで何か描いていた証拠です。

「―そういうわけで、uとvが何かだったときに、欲しいxとyが存在するための条件を調べる。文字が二つだから、一文字消去。たとえばxの方を消去したら、yの方程式ができるから、まずはこれが0から1の範囲で解をもつuとvの条件を調べればいい。そうすれば、いつもの二次方程式の問題になるね。で、対応するxも0から1の範囲になるように、さらに条件を絞れば大丈夫」
 大丈夫、と言ったがむしろ最後のところが厄介なポイントだと思う。でも休み時間はもう残っていない。今はここで満足するしかない。
「ありがとう。なんだか、ちょっと意外だったかも」
「あっ、わかりにくかったかな?」
「ううん、朝比奈さん、いつもすごいなって思ってたけど、なんだか今日は……」
 そうなるよね。いつもと同じだ。「いやいや」私は微笑んで、黒板を指差した。「これ、もう消しても大丈夫?」
「ちょっと待って、写真撮るわ」と急いでスマートフォンを取り出そうとするので、私は周囲に目を走らせ「あはは。今のは聞かなかったことにしておこうかな」と一応、言っておく。
「助かる~! 消すのは私がやっとくね」とその子は言う。別に消すくらい構わない、と思ったけれど押し問答になっても面倒だった。
「わかった。ありがとう」
 足早に教壇を降りると背後でシャッター音が鳴った。まっすぐ廊下に出たが、近くに教師の目はなかった。

     ⁂

 足元に振動を感じた。個別添削してもらう数学の問題を眺め終えたばかりだった。鞄を探るとスマートフォンの画面が光っている。職員室なので、鞄の中で操作する。
 最新の通知は、見慣れないアイコンだと思ったらインストールしたばかりのナイトコードだ。@hereで送られているメッセージは、

   K ミクが喋らない。

「先生、」と切り出す。スマートフォンから机の上へと視線を戻す。
「申し訳ありません、家庭の方で急用が入ってしまって……今日は失礼してもよろしいですか?」と伺いを立てるが、「家庭」カードを切ってしまった以上は形式的な質問にしかならない。
 ということは教員もわかっていて、「うん、もちろん。いつでも答案は見てあげるから」と表情を変えない。「どう? 解けそうだった?」
 素早くペンケースを滑り込ませて鞄を持ち上げる。「大丈夫です。どこが難しいかはわかったので。明日までに考えておきます」
「明日は土曜だよ。じゃあ、良い週末を」
 私は一礼して去った。

 ナイトコードなのだから「家庭の方」で間違いないと思ったが、突然早く帰宅すれば母親が怪しむかもしれないことに思い至った。今日、部活動や予備校がないかわりに個別指導をお願いしていることは知られていた。かりに怪しまれずに済んだとしても、空になっている部屋を訪れられたら困る。
 どこか人目につかない場所で、スマートフォンを使ってセカイに入らなければならなかった。結果的に先生に嘘をつくことになった、と思うと身体が芯のほうから重くなってくる。罪悪感を抱いているのだろうか。せっかくセッティングしていただいている個別指導を抜け出して街を歩くなんて、まるで学校を休んで遊興施設にこっそり出入りする悪い学生のようだ。そう思って目を伏せる足元のタイル舗装がついに途切れて、公共歩道のそれへと切り替わる。
 鈍い重さがいっそう増すと同時に、どこかでかすかな解放感も覚えて、瑞希の派手な格好がぼんやり浮かんだ。そういえば、パソコンからでなくても入れるのだということを教えてくれたのも瑞希だった。同じように全日制の高校に通ってはいても、その態度は想像もできないくらい違うな、と思う。
 けれども、今の問題はKとミクだ。

 学園が遠くなるほどに、わかってきた。
 人目につかない場所など、この渋谷という街にはない。
 少なくとも、思いつかない。そんな目で街を眺めたことがなかった。
 学園に残ったほうがまだ場所を探せただろうか、という考えをすぐに打ち消す。家庭の事情だと言ってしまった以上、あとから教師と鉢合わせする可能性を残すわけにはいかなかったのだ。
 それに職員室のことだから、他の教師も聞いていたかもしれない。もしかしたら私とすれ違った生徒の話が、教師の耳に入るかもしれない。ひとつひとつの可能性は無視できるくらい小さくても、私を一方的に知っている人間が学園にはあまりにも大勢いるために、何が起きても不思議ではなかった。
 そしてそれは、路上でも同じことだった。

 逃げ込むようにトレーニングジムに入った。学園のトレーニングルームにも最低限の器具は揃っているから、二年生に上がってからは休日しか利用しなくなっていたのに、フルタイム会員のまま放置していてよかったと思う。
 個室に入って鞄からスマートフォンを取り出し、ストレージモードで共有フォルダを開いてみる。やはりデフォルトのWebブラウザでは楽曲ファイルを再生できない。別のブラウザならと考える時間も惜しく、URLをコピーしてナイトコードアプリの自分宛てDMに投稿する。URL文字列に遅れてプレイヤーが埋め込まれるのを待ちながら、端末が消音しているのを確かめる。
 最初から、家に帰るまで待てるなんて少しも思っていなかった。
 私は嘘をついたのだ。

     ⁂

 セカイには誰もいなかった。
 というのは間違いで、ミクが歩いてきた。
 というのも間違いで、歩いてきたのは奏だった。
 奏が腕で示して、初めてミクが近くにいるのだとわかった。即座に私が歩み寄る、その運動のなかで騙し絵のようにミクの輪郭が浮き上がった。静止してただ立っているミクのすがたは、深深しんしんと広がるセカイの風景に白く埋没して、そこにいることさえほとんどわからないのだった。不安に駆られて声をかける。
「ミク、どうしたの」
 答えない。
「大丈夫?」
 ミクの両眼ははるか向こうの一点を凝視している、ように思えた。同じ方向を見やっても、オブジェクトたちが立ち込めて作り上げる霞の中に対象を見失う。
「気分でも悪い?」
 気分を悪くしたとしたら私だろう。それ以外であってはならなかった。うなだれていた奏と、一瞬目が合う。奏はまた目を落として、
「……ごめん」
 と絞り出すように言った。まるで自分が悪いかのように。
「奏のせいじゃないよ」ここで乗じて非難すれば、どれだけこの人間を傷つけられるだろうかと思った。「むしろ、気づいてくれてありがとう。きっと私が悪いんだ」
 ミクの背後には、作曲作業をしていたのだろう、楽譜やメモ類で奏が作った「巣」がそのままになっている。私とは営巣のしかたが違うな、と思う。
 体格や作業するときの体勢の違い、一度に処理できる視覚・聴覚情報の差が、持ち込んだ資料の広げ方となって表現されているのだ。
 そのなかに、殴り書きのように大書された「永遠」という文字がある。
 いい気なものだ。

 ミクの足元に腰をおろして寄りかかるとその脚は、据え付けられた柱のように強張っている。そのまま、立ち尽くしている奏を眺めている。さっきから奏は作業もしないで、どんな気分なんだろう?
 奏は一曲分くらいの長さの聴覚情報に関しては完全なイメージを持っていて、その内部には即座にアクセスできるようだった。サークルを結成して間もないころ、アレンジの相談をしていて気づいたときには、作曲の才能以上に驚かされた。
 テンポをいくつ変えると楽曲が何秒伸縮するか、計算しているふうでもなく当てる。
 声や手近な鍵盤だけでなく足なども使って音を表現し、身体の出力装置が限られていることをもどかしがる。
 左手と右手で楽曲のまったく違う部分を同時に呼び出して演奏する。
 私が小節番号を使って位置を指定すると、むしろ反応が遅れた。
 無時間的構造と時間的持続のあいだを自在に行き来する、それがどういう感じなのか、私にはまったくわからない。

 そうしていると瑞希が来る。
「絵名はどうだった?」と、事情を知っているらしい奏が言う。
「まだ寝てるっぽかったよ?」
「そう……昨日遅かったからね」
「あのあと、結局徹夜」
「学校は?」と私が問うまでもなく、私服だった。
「いいのいいの。ボクの場合、急に消えても、誰も気にしないから」と言う語尾が笑いに変わる。「消えても」という言葉を危なっかしく弄んで、明らかに私の以前の言動に対する含みがあるけれど、悪意は感じない。
 むしろ滲んでいるのは共感、みたいなものか。
 一度拒絶したはずの共感が、瑞希の中で懲りずに持続していたとわかって煩わしい。
 と思う間にも瑞希は話し続ける。「要は慣れなんだよねー。いればいることに、みんな慣れるし、いなければいないことに慣れる」
「そんなふうに、慣れてくれるものなの?」想像もつかない。
「慣れてくれるね。そういうことばっかりの繰り返し」
 さっきの苦労を思い出すと、素直に羨ましいなと思えた。
「そう。それで、誰にも見つからずにセカイに来られるんだね」
「でも、ここにはミクがいるでしょ? だからボクが、ミクの話し相手になりたいわけ。ミクが喋れないから、一方的になっちゃうけど」

 何が「でも」で「だから」なのかわからない。

「どういうこと。何か、責任でも負ってるつもり?」
 すると沈黙が降りる。
 しばらくして、「責任……っていうか、ボクの方で勝手にだけど、責任感だね。余計だと思う?」という瑞希の声色が、少し強張っている。
 そうだよ。余計なことしないで。
 という言葉が出かかったが、ミクの顔が浮かんだ。
「……余計ではない、はず。瑞希が来て話したいなら、話してあげればいい」
「よかった。うん、じゃあ、ミクとお喋りできない間も、ボクたち話そうね?」
 ボクたち? 私と? 展開が意味不明だ。
 でも、ここで拒絶してはいけない気がした。「わかった」と答えておく。
「よし、約束ね。じゃ、ボクは徹夜して眠いから、おうちに帰って今のうちにひと眠りします!」
 そう聞いて、私がまだ帰宅途中だったことに気づいた。
「そうだ。私ももう帰らないと」今夜はなんとしても、母親に気づかれないようにしなければならない。
「サークルの前にもう一度、様子を見に来られないかな?」と瑞希が言う。
「私は構わないよ。奏が決めて」私の心はもう決まっていた。
「そうだね」と奏は宣言する。「25時になったらまたここに集合しよう。そのあと、次の曲の歌詞の相談がしたい。ミクにも聴かせてあげないとね」

 何を言っているのだろうと思う。
 永遠に生きるつもりなのか? この人間は。

     3

 そういえば、以前瑞希がSNSでシェアしたのが目に留まったのだが、親に「生んでくれてありがとう」という作文を書かせる小学校があるようだ。特定の小学校に限った話ではなく、そういう教育メソッドがあるらしい。ちょっと信じられないが、そういうことも世の中にはある。
 現に生まれているという単なる事実に喜びを覚えるとか、育ててくれたことに感謝するというなら、私自身の実感としてはわからないなりにも、人の心の動きとして理解することはできる。けれども自分を生んだこと自体に感謝するとなると、それはもうどういうことなのかまったくわからない。
 生んでくれて、ありがとう。
 それはもう、「ありがとう」という言葉が担える領域を踏み越えているように思う。それとも言葉の使用法を踏み越えること自体に快楽が宿るのだろうか。正直、作詞する者としてわからない感覚ではない。でも私はきっと、それが模範とされるなら喜んで作文していたし、元気よく読み上げていただろう。
 子供に「生んでくれてありがとう」と発言させることが、その後の人生をどれだけ決めてしまうのか、私には想像がつかない。

 私はそんなことを言わずにすんでよかったと思う。
 この数時間で、改めてそう思った。

 奏は奏なりに、永遠にアクセスしようとしているのだろう。
 私には違うやり方がある。

     ⁂

 両親が寝静まるのを待って、セカイに入る。グレースケールの広がりのなか、ここに集まろうと奏たちが定めた場所にミクは変わらず立っていて、向こうの一点を見つめている。
 ミクが見ている方向には、いったい何があるのだろう? 
 こんなこと、以前は思いつきもしなかった。
 私がセカイに来るとミクが現れて、というのは逆でずっとミクが居るところに私が来ているのだが、私にとっては違わなかった。私が来るとミクが現れ、たいてい隣に位置を定めて、それがすべてだった。私が眠るとミクは消えたが、ミクという唯一の向きに安息があることを、目覚めてミクが再び現れたときに知った。ミクが生み出してくれた身体のなかの勾配によって知ったのだ。
 そうしてセカイにミク以外の方向はなかったのに、マリオネット人形の出現をきっかけに変わってしまった。

 ミクも近くにある人形も、そのまなざしはポリゴンの降り積もった霞のなかへと吸い込まれて、雨は降らなくてもはるか遠くまで空間が積み重なっている。その方向を目指して私は歩き始める。
 ひとりで歩くその一歩ごと、私の背後にミクが遠ざかっていって、徐々にポリゴンの不透明な重なりの向こうへと消えていくのを想像する。ミクのすがたはけっしてゼロにはならないだろう。けれども、やがてオブジェクトたちのノイズのなかに溶け込んで、識別できなくなるはずだ。
 それはそのまま、ミクからも、遅れてやってくるだろう三人からも私のすがたが遮られて、横溢するノイズから区別できなくなるということだ。

     ⁂

 いつかは消える。
 何度考えを巡らせても、その言葉が同じところにそびえ続けている。しかもそれは、ただ何度も考えることができるというだけではない。確実に、実際に起きることなのだ(この「実際に起きる」というのは、「ミクがいる」ということに似ている気がする)。ただそこにある事実に、目を向けるだけ。子供の遊びにも等しい、こんなに簡単なことを、どうしてみんなやらないのだろう?
 一度壊れた心には、レコードのように抑鬱的思考の溝がついていて、巡ってくる針はたやすくこの溝に落ち込む。幾度となく回帰する同じ思考、堂々巡りの繰り返し。そうなってしまえば、わかっていても自力で抜け出すことはできない。思考の習慣が、身体に刻まれているからだ。
 一度壊れた心は、二度と元に戻ることがない―なんていう常套句だって、それ自体、抑鬱的思考によって考えさせられているにすぎない。私が言葉を使って考えているのか。それとも言葉に考えさせられているのか。
 そんな一連の思考の流れ自体、もう何度となくたどってきた。いつも同じところに行き着く、何の意味もない思考。
 これまで作ってきた詞と曲を忘れてみようと思って、すべて諳んじてみる。
 何度唱えてみても忘れることができない。
 でもそれもこれも全部、こうして歩いていった果てに、いつかは消えてくれるはずだ。

 私は想像する。

 私が消えると、私の部屋には誰もいなくなる。
 両親が出入りするだろうし、警察なんかも来るだろう。でもそんなのは些細なことだ。
 通電することをやめて静止したアクアリウムの水は濁り、水草は枯れる。そんなふうにしていたら見栄えが悪いから、真っ先に撤去されるだろう。
 そこは空所になる。
 けれどもかつてそこにアクアリウムがあった、という事実は変わらない。
 だからその空所で、アクアリウムはいつまでも静止し続ける。

 両親は気を揉み、悲しみ、苦痛に耐えながら、訪れる歳月を気丈に過ごしていくのかもしれないが、結局はそんな時間も過ぎ去る。
 もしかすると、別の子供を育てる。優秀だといいね。
 いずれにしても、たかだか数十年も経てば住む家族は入れ替わるし、マンションも耐用年数を迎えて取り壊される。
 跡には何か新しい建物ができて、しばらく人間たちが出入りするだろう。それもやがてなくなって、何もない空間になる。
 また建物ができる。
 何もない空間になる。
 幾度となくそうしたことが繰り返されて、ついには二度と何も建たなくなる。
 そしていつか、私の部屋だった空間は海水に沈み、それとも土砂に埋まる。
 アクアリウムは静止したままだ。

 そうしたすべての間、ミクのもとには誰も訪れない。
 ほんの初めのころには、奏や絵名や瑞希が何か話しにくるのかもしれないが、些細なことだ。
 ミクは黙ったまま、ただそこに立ち続けている。
 そうした長い長い時間を、私の生きた短い時間で割ったのに等しい数だけ、また同じ長い長い時間が経ったころ、セカイに変化が生じる。セカイ中に展開され、横溢していたオブジェクト群が、その原動力を失ったことで、ゆっくりと沈殿を始めているのだ。
 大きなものから先に、長い長い時間をかけて、沈んでいく。
 目に見えないくらい微細なものは最後まで残るが、結局はそれらも沈む。
 すると驚くべきことに、しだいに視界の光量が増していく。光が差してくる。
 これまではオブジェクト群に遮られていたのだ。
 ゆっくりと、晴れ上がっていく。

 ミクはセカイの夜明けを見る。

 でもそれは、ミクが光に曝露するということでもある。
 直接光を受けない陰の側にも、取り囲んでいるオブジェクト群から反射した光が投げかけられるから、十分な時間が経てば同じことだ。
 無数の私のなかで、ミクは褪色していく。
 リボンも、相異なる色を持っていた両眼も無彩色になる。
 爪からも色が失せていって、私が手を伸ばして少し触れると、それでもう何百万年にもなる。

     ⁂

 そろそろ消えたかな。
 そう思って振り返って、目を疑った。ずっと離れて、誰かがついてきている。確かにそれは動いていて、だから私の同類で、向こうの方をゆらゆらと歩いているのが見える。
 目を凝らせばそれは紛れもなく奏だった。
 見られてはいけないすがたを見られてしまったような気がして、急速に身体が熱くなる。これが羞恥心か、と思う。
 もう、そんなものはいらないのに。
 健脚とも思えない華奢さで歩いている、それが私のどれくらい後方なのかわからない。けれど距離はもう関係ない。重要なのは、見えているし、見られてしまったということだ。
 私が振り返ったのも伝わったらしく、奏が腕を上げて手を振ろうとする。しかしそれで体力の限界を迎えたのだろうか、大きくよろめいて今にも崩折れそうになった。
 思わず駆け戻る。
 危ないところで、肩を支えることができた。

 力のない奏の顔がすぐ近くにある。
「奏、」私は思いついて言った。「私は絵名と瑞希には長く生きてほしいと思うよ」
 でも、それももはやどうでもいいことだ。
 奏は呼吸を落ち着けるのにずいぶん時間がかかる。しかしもう時間も関係ない。
 ようやく、「わたしも」と言って目を閉じた。
 それもどうでもいいことだ。

 私の気持ちよりも大きな私の気持ちがある。
 それはなんだろう? 夢と呼ぶことができるだろうか?

 いつか、夢と夢が会話することはあるだろうか?
 もしあるなら、ミクは孤独ではないだろう。

     ⁂

 迷ったけれども、奏は二人に返してあげるべきだと思った。

 けれど、いくら奏が小柄でも、背負うのは大変だった。歩いても歩いても、どれだけ歩けたのだか、わからない。たった数十メートルでも進めただろうか?
 私はぐったりした身体にリクエストする。
「何か歌って。奏が作った曲」
 即座に奏が、セカイに最初からあった曲を歌い出す。
 それは確かに、最後まであるはずの歌だった。ミクがそこにいる限り、私たちがどうなろうとも、ノイズよりも微弱な信号だとしても、鳴り続けているはずだった。
 一フレーズだけでまた奏の身体が力を失い、重みが丸ごと上半身にのしかかってくる。
 これはもう駄目だ、と思う。けれども
「奏が作った曲って言ったのに」
 と私が文句を言い終わるころ、絵名と瑞希と、二人に見守られるミクが見えてくる。

 で、ミクは立っていない。座っている。遠くで絵名と瑞希と、楽しそうに、これがずっと続くのだとでもいうみたいに、会話をしている。
 ように一瞬、見えた。まだ何か、期待していたのだと気づいた。
 目を凝らしてみれば、ミクは確かに座ってはいるようだった。けれども、残りの二人は互いの方を向いて喋っているだけだ。ミクが反応している様子は少しもなかった。
 私はもう面倒になって、慎重に腰を下ろし、奏を開けた場所に寝かせた。
「奏!」と絵名が叫んで駆け出してくるのに任せる。勝手に来るといいよ。けれど絵名は道半ばで振り返って、「ミクも来よっか」と手招きする。そしてミクは―、
 絵名の言葉に従って、瑞希と連れ立って歩いてくる。
 驚いた以上に、不快感があった。

 寝かせた奏の頭を取り囲むように、車座になって四人で座った。ミクはやはり口を開かずに、私でも奏でも、二人でもないどこか遠くを見つめている。絵名が私を睨む。
「行って帰ってきただけ? で、奏だけ疲れきって帰ってくるとか、馬鹿じゃないの?」
 苦労して奏を連れてきた上に、まだそんなことを言われなくてはならないのかと思う。
「帰ってこないほうが良かった?」
 と聞いてみる。キレて喚くかなと思ったら、絵名は「そういうこと二度と言わないで」と静かに言う。瑞希はもはや何も言わない。そういうものか。人はこういうとき、普段とは違う振る舞いを見せるのだった。仲良さそうにして、どうでもいいようなことを雑談しているときとは全然違う。けれどもこの知識を活かす機会ももうないだろう。
 重苦しい沈黙を、しかし破って
「これからのことを、考えよう」
 と、横たわったままの奏が苦しそうに言った。
 絵名も瑞希も黙っているので、仕方なく私が言う。
「これからって言っても、ミクがこのままなら」
 奏は「それも視野に」と答えかけて、声が不明瞭にほどける。また意識を失いかけたのだろうか。けれど気を取り直して、一言ずつ言葉を絞り出す。
「まふゆの本当の想いがなんなのか、これからも考えていきたいと、わたしは思ってる」
「それ、もう必要ないよ」
 という私の言葉を、完全に無視して奏は続ける。「やっぱり、話そうとし続けることが大事なんだと思う。ミクにも、これからもずっと、話し続けるよ。それで新しい曲を」
 まだそれを言うのか。絵名も瑞希も、うつむいて押し黙っている。心底呆れ果てているのだろう。当たり前だと思う。こんなふうになっても、言うことが全然変わらないのだ。
「絵名や瑞希にも、まふゆがどういう想いを持ってると思うか、聞かせてほしい」
「そういうのは私に聞いてよ!」と叫んでいた。
「いいの?」とミク。

     ⁂

「まふゆのことを考えてた」とミクは言う。
「そう。私のこと、何かわかった?」と聞くと、ミクは首を振った。
「わからない。思っていることを直接言わないのが心理テストだって、心理テストは駄目だって、まふゆが言ってた」
「そうだね」と言う。奏以外には何のことかわからないだろうが、構わない。
「それで奏が、まふゆについて知りたいって言った。それで、ずっと考えてた。直接言えるようになるまで、考え続けた」

「雨の日のこととか、晴れた日のこととか、雨のあと晴れた日のこととか、傘をさすこととか、傘がないときどう雨宿りするかとか、晴れた日に傘があったらどうするのかとか、晴れた日に傘がなかったらどう雨宿りするかとか、セカイに傘があったらまふゆは来ていたかとか、セカイに傘がないときどう雨宿りするかとか、セカイが晴れたらまふゆは来ていたかとか、セカイが晴れていて傘がなかったらどう雨宿りするかとか、セカイに雨が降ったらわたしが傘をさすこととか、セカイに雨が降ったらまふゆが傘をさすこととか、セカイに雨が降ったあと晴れたらわたしとまふゆがどう雨宿りするかとか、セカイにまふゆが来ていなかったらわたしがどう雨宿りするかとか、雨のあと晴れた日にわたしが傘をさしたらまふゆはどうするのかとか、」

 瑞希が遮る。「あー……考えてたんだね」
「ひととおり、考えてた」ミクは答える。「でも雨は降らなかったよ」
 てっきり、喧嘩別れしたから喋らなくなってしまったのかと思っていた。どういう理屈なのかはまったくわからないが、それだけではなかったのだ。
「確かに昨日、まふゆについて知りたいとは、言った……」
「ダメだよ奏~まずは起きたことの報告がトラブルシューティングの基本でしょ」
「わたしは何もしてない……」私たちの中心で奏が言う。
「みんなそう言うんだよね~」

 それから絵名が「ミクは最初からまふゆのことはわからないって言ってたのに、しつこく聞いたらかわいそうじゃない!」と奏を咎める。安心したのか元気を取り戻してきた奏は、はにかむように頬を緩めた。
「いろんな方法で聞き出せば、何かわからないかなと思って」
 諦められなかったのだという。かわいそうだとか、しつこくて迷惑だとか、そういう言葉がミクに似合うのかはわからないけれど、あえて聞き出す必要は確かになかった。
「私が歌詞を書くから、大丈夫」と保証する。

 最後に「それから、」とミクが言いかけて、同時に私は思う。
 歌詞というかたちにすれば、私自身にとってはそこに質感が伴わなくても、奏がそれを読んで何かを考えてくれる。
 それは私の一部を預けているということかもしれない。
「どうすればみんな幸せなのか、考えてた。わたしには、わからなかった。けれど、そうなったときには、そうなる。だから、ずっとそうだったんだよ」
 私と出会ってから、ミクはいろいろなことを覚えた。
 いつの間にか、私が知らないことまで覚えている。

     ⁂

「奏」
 本当の名前で呼んでみた。まだ発声するのに慣れないので、口に意識が集中する。セカイや打ち上げではあんなに呼んでいるのに。ボイスチャットでのそれには、まるで呼び間違えでもしたら一瞬ですべてが砕けてしまうような、そういう危うさが宿っていた。
 その奏が言う。
《何かを壊せるタイミングがわかって、壊してしまったらって思う、って言ってたよね。でもそれは、それを助けられるタイミングもわかるってことじゃないかと思う》
「ものは言いようだね」
《そうだね。でも、そういう大事なタイミングがわかって、そこであえて優しくできるっていうのは、すごいことだと思う》
「そんなの、曲のどこに音を入れたらどういう効果が出るかわかる、みたいな話だよ」
 わかっても結局は裏切るのかもしれない。優れた曲を作れても、いい曲とは限らない。
「奏が言ってるのとは反対かもしれないけど、私もそういうことを考えてたよ。親がずっと私にたいしてしてきたことが、一番ひどいやり方で無に帰すには、いつ消えればいちばんいいだろうって考えてた」
《……とりあえず、黙っていなくなるのはやめてほしい》

 ミクが永遠の方に属している以上、私たちがミクについて語る言葉は、本質的にその使用法を踏み越えていて、本当にはミクに届かないのかもしれない。
 なんて考えるのは簡単で、けれども現に私もミクも、セカイも変わっている。
 ここには永遠と有限さの難しい関係があって、奏がどういう感覚をもっているのかわからない以上に、私にはまったくわからない。

 ただ、私の人生が特別な筆となって、こちらのごく一部を塗りつぶすことで、セカイの領域が私にはわからない仕方で満たされるといいと思う。

「どうなるかわからないよ。特に、来年とか」
《わたしには今年も来年もない。まふゆを救える曲を作り続けるだけ》
 と奏は頓珍漢なことを言う。
《でも、みんなで曲を作るのには時間がかかるから、待っていてほしい》
「私がいないほうがよかった?」
《大丈夫。アレンジを分担してくれると、完成が早くなる》
 率直な答えに、ちょっと笑ってしまう。
「ふふ。じゃあ私にも『救われるべき者』以上の存在意義があるかな。一人で、一瞬で、新しい曲を作れたらいいと思う?」
《一瞬、というか……わたしの中で鳴っている音をそのまま配信できれば、と思うことはあるよ》
「配信?」
《そういうチャンネルがあって……そこにつなぐと、わたしの音楽が永遠に流れてて……というか、それがわたしで、わたし自身はもう消えてる》
「身体がない?」
《そう。だけどそれだけじゃない。SF映画みたいに、脳だけになってるとか、意識だけデータになってるとか、そういうことでもなくて……音楽だけになってる。そうすれば、もう何も考えなくていい。何もしなくていい》
「ラーメンも食べなくていいね」
《うん、楽になれる。でもそれじゃ駄目》
「人を救えないから?」
《どうして?》
「奏にはそれしかないでしょ?」
《……そうだね。私のなかの音だけでは、救えない。雪がアレンジしてくれて、えななんがイラストを、Amiaは動画を作ってくれて、自分の音楽がそういうふうに受け止められてたんだと思いながら作ることではじめて、人を救えるようになるんじゃないかと思う。雪も歌詞を作ってくれるとき、わたしたちの言葉を聞いて、推敲するでしょ?》
「私は、自分の理想に近づけようとしているだけ」
《わたしもそうだよ。でも時間をかけて人に聞いてもらいながら作る、その往復がわたしにとっては大事みたい》
「そのために食事しなくちゃいけなくても?」
《そう、眠らなくちゃいけなくても》

 私は限りある命に縛られた存在と、そうではない存在とを対比させることによって、奏は生活に区切りのない自分自身の境遇と重ねて、どこまでも広がっていく時間を想像することによって、永遠というものにアクセスしようとした。
 でもどちらも幻想で、何をやっても最後は死ぬ。

「最後には死ななくちゃいけなくても?」私は、避けていた死という言葉を使った。
《それもたぶん、仕方ない。救われるべき人に間に合うために》
「救うとか、救われるとか、馬鹿みたいだと思わない?」
《……そうだとしても、他にどうしていいかわからない》

 バーチャルシンガーがいなかった頃にもセカイはあったのだろうか?
 それはスマートフォンがなかった頃について考えるのと同じくらい難しい。
 この二つが同じように見えるのは、私がまだそれほど生きていないからだろうか。
 それとも人間だからだろうか。

 で、もう一度あの記憶について、私は自分自身に教えるように語る。

 私は一人です。
 辺りは暗くて、ときどき車が通るだけです。
 車が通るたびに水溜まりが照らされます。
 水面は雨に打たれて泡立っています。
(照らされたとき以外も泡立ってるんだけど、それは見えないんだね。)
 そうしていたら、親切な人が見つけてくれて―、
 私は差し出されたスマートフォンを投げ捨てませんでした。

 それは私が私である以上、初めから決まっていたことで、
 いつ起きたとしても同じことなのでした。

     ⁂

《で、これが新しいラフ》とえななんが画面を共有する。
《……すごくいいと思う》
《……! ありがとう! 雪は?》
「私もいい絵だと思った。全体的に」
《何それ。なんかないの? 逆にムカつくんだけど》
 Kはよくて私はダメなのか?
「今Amiaがいないから、下手なことを言ったら収拾がつかないと思って」
《は? 収拾がつかないってどういう意味よ》
「混乱して、収まりがつかないと思って」
《だから、どうして混乱……! あのね、『収拾』って言葉の意味くらい私も知ってるんですけど? あんまり馬鹿にしないでくれる? 私が言ってるのは、Amiaがいつも宥めてくれるのわかってて当てにしてたわけ? って話よ。そもそも、あんたが不満がってたし、ミクに見せたいって言うからでしょ? 描いてるし、意見求めてるんじゃないの? それで聞いてるの。なんかないわけ?》
 動画をミクに見せたい、というのはAmiaあたりから聞いたのだろう。
「言葉の意味を聞かれたのかと思った。悪かったと思う。Amiaが宥めてくれないから、えななんの怒りが収まらないと思った」
《こいつ……!》
 通知音がして、Amiaがログインした。
《カワイイ者は遅れて登場する~!》
 沈黙が降りる。
《いや、塩すぎない? アドリブ下手なの、全員? ……何? またケンカしてたの?》
《……雪、》Kが沈黙を破った。
《確かに雪は一度私たちの関係を壊したかもしれない。けれど、こうしてまだ続いてる》
「K……」
《何かを壊せるタイミングがわかる人には、それを修復できるタイミングもわかるはず》
 とKはさっきと同じことを言う。
《だから、雪にはそこで修復できるようになってほしいな》
「……努力はするよ」
《いや、何いい感じにまとめてんの?》
《どしたどしたえなな~ん? 聞かせてみ?》

 えななんが説明し、私が訂正し、えななんが補足した。
《なるほど『収拾』ねー! これはもう、仕方ない。許す!》
《はぁ!? 何勝手に許してんのよ! ていうか、そこじゃないでしょ?》
《LのアローとRのアローわかんない人じゃん》
 私は思い出して言った。随分前の話だ。
「あれ、Lの方はカタカナにするならアラウだけど、それを言っても仕方ないと思った」
《あはは……そういうの後出しするんだ?》
《雪、》Kが介入した。《ゆっくり頑張っていこう。私も頑張る》
《あ~K、そういう人に頑張ってとか言っちゃダメなんだぞ》
《大丈夫。これは私とまふゆの間のことだから》奏が本名で呼んだ。
《……そっか。確かにそうだね。二人とも、ごめんね》Amiaのほうは急に真面目になった。どうしたんだろう?

 どうして私が謝られてるんだろう?

「気にしなくていいよ。それより、」私は言う。「永遠ってあると思う?」
 誰も反応しないので、私は続けて言う。
「自分はなんでもできるんじゃないかと思って、でも本当はそんなことないよね。私にはミクがいるから、私も永遠になれるつもりだったけど、そうじゃなかった。人間には限界があるんだね」

《いきなり何言うかと思ったら、私はあんたが今みたいなふうになった、最初からそういう話してたんだけど? 話聞いてなかった?》
「私には関係ないと思った」
《あのね……何? 心境の変化でもあったわけ?》
 私は少し考えて言った。
「心境は、変化してない。認識が変化した」
《いやいや……変化してたでしょ~心境》とAmia。
《ま、良い変化だったらなんでも良いの。急に物騒な話始めないでよ! ミクが考え事してたってだけでしょ?》とえななんが後知恵で言う。
「そうだね。結果的には、だけど」
《何その言い方?》
《まあまあ……雪はミクが心配だったんだよね?》
 そうなのだろうか?
「ミクが喋らないって聞いて……すべてを失ってしまった気がした」と言ってみる。
《えー……》とAmiaが露骨に引くが、今の私の言葉は嘘なのだろうか?
 むしろ、すべてを手に入れたような気分になっていたかもしれない。
《ねえ。やっぱりそこでしょ。なんか、さっきから私たちを全然数に入れてなくない?》
「何人って言えば満足?」
《は?》
《あー……えななんは今回遅れてきたから、入れてもらえてないんじゃない?》
《そういうことじゃなくて……》
《ねぼすけさん組~》
《組って私しかいないでしょ! じゃなくて、あんたが徹夜に付き合わせたからじゃない! Amiaは寝たの?》
《いや、結局ミクが心配で……正直、もう限界です》
《寝てない人間がいくら集まってもまともな話できるわけないでしょ!》

 何をやっても最後は死ぬ。
 でも「何をやっても」と「最後は死ぬ」の間で、言葉の使用法を踏み越えている、ような気がする。
 本当はつながらないはずのものを、つなげている。
 来週の歌詞では、この関係について考えてみたいと思った。
 その前に、ミクに会いに行って謝らなくてはならない。

 Kが「えななんも、Amiaも、雪もニーゴの大事なメンバー。ミクも。誰一人欠けては駄目」と今更言うが、声が弱々しい。「ごめん、ちょっと落ちるね。少し眠りたい……」
 と言ってボイスチャットから落ちる音がする。
 続けて通知音がしたと思うと、テキストチャットの方に@hereで投稿されている。

   K ねます

 すぐに「Zzz」のリアクションがつく。「眠」、「休」、さらにナイトキャップの絵文字と増えて、どんどん賑やかになる。マウスオーバーしてみればすべてAmiaだ。
 えななんが「Zzz」に加わったので、私も「Zzz」を押す。

 気がつくと、Kの書き込みの文面が変わっている。

   K そろそろ寝ます。おやすみ。(修正済み)

「うん。本当に寝たみたいだね。じゃあボクも寝ようかなー……二人とも、本当に今日はもう終わりね? おやすみ~」と落ちる音。
「おやすみ。ああもう……来週は絶対にコメントもらうからね? ちゃんと寝なさいよ?」とえななんも落ちて、ボイスチャットが私だけになる。
 大抵は私が最初に抜けるのに、今日はこうして最後になった。

 結局こんなふうに私が残るのか、と思う。

 切断しようかと思ったが、少し考えてミュートするだけにした。
 そうすれば後から誰かが入ってきても、私がいるのかいないのかわからなくておもしろいかもしれない。ひょっとすると、えななんあたりがまた入ってきて驚くかもしれない。
 驚くところを見てみたいが、それを眺めているのは私ではなくて、物言わぬ「雪」だ。
 その間、私は眠っていて、ミクのことを考えているから。
 でもさしあたり、その眠りは永遠ではない。