声の住むところ

プロセカ二次創作小説。初出:pixiv投稿作品、2021年3月7日。のちに加筆・修正。

《でさー、ドロッドロのスープになるまで……》
《ちょっと》えななんが制した。《いきなりキモいこと言わないでよ!》
《あはは、ゴメン。でもそうじゃん?『私はなんともないですが?』って思ってるんでしょ?》とAmiaがおどけてみせる。《『いたって平穏な生活を、送っておりますが?』》
 聞きながら、ケトルを傾ける。
 マグカップに流れ込んだ白湯が湯気をあげて、私の手を湿らせる。
《送ってないし。ていうか、思ってないでしょ。そのときにはとっくに死んでるんだから》
《わかんないよ~? カエルのオバケがいてさ、そいつが……》という声が続かず、途切れた。

 底冷えがするような無音が口を開ける。
 Amiaが言葉を飲み込んだあとに残るこの冷たさを、私は知っている。
 消えたい、という感覚。

 でもAmiaはすぐに持ち直す。《……雪はどう思う? ズバリ、スープはものを考えるか!》
 反射的に「スープは考えないと思う」と答えた口が乾燥していたので、白湯を少し口に含んだ。
 温かい。
「でも、死ぬ境界付近は、わからないな」
 最初、三人に説明したときには気づかなかったが、そこがこのたとえ話のトリックなのだろう。
 作詞に使えそうだ。
《あのね。私がせっかく逸らしたのに、エグい想像させないで》

 そこにKが
《茹でられたカエルの気持ち、わかるかもしれない》
 と言いだすので、《マジで?》とAmiaが食いつく。けれど、勢いを失う。《……どういうこと?》
「死んだの?」と私も聞く。
《一部、死んだ。虫歯を放っておいたら、神経を取ることになった。2本》
《何それ?! いつの話?》とえななん。
《去年……もう一昨年か。えななんたちと知り合う前》
《痛くなかったの?》
《痛かったんだけど、気づかなかった》
《だって、食事は?》
《邪魔だなとは思った。だいぶ部屋が狭くなった、と思ってたら病院に運ばれた》
《全然意味わかんない……》えななんがショックそうだ。
《運ばれたって言ったけど、救急車じゃないから、大丈夫。遠くの家族が来てくれて、わたしが歩けないから、タクシーに乗せられて》
「大丈夫ではないね」と指摘すると、《うん》と認める。
《大丈夫じゃなかった。すごくひどかった。熱も出てたし》と言うKの声が暗くなっていく。《そのときに関しては、もっと言えないことがある……》
《言わなくていいよ》とAmiaが言う。
《だいたい想像つくし》とえななんも言う。
 私はなにもわからない。
 わからなくては、まずい気がした。

 ***

 そういえば、首の構造ひとつ、私は知らない。

 両親と挨拶回りに向かった先で親族の噂話が始まったとき、私は玄関先に立っていて、どうすればいいのかわからなかった。
 とりあえず、紅白飾りの注連縄に視線を固定して、見ても聞いてもいないふりをした。
 そこに居るけれど、関心はないようなふりをした。
 実際、関心がなかった。

 そういう場面をどうすれば乗り切れるのか、今でもわからない。
 バッハのインベンションなんか脳内演奏すれば、二声だから思考のポートが2つふさがって、何も知らないうちにやり過ごせないだろうか。

 でも叔父が「結局、家、建たなかったんだって」と言うのは嫌でも耳に入ってくる。声を潜めてはいるけど、それはもちろん大っぴらに言うことじゃないというニュアンスを込めているだけで、私にも聞こえるようにはしているのだ。
 見ていないし、聞いていない。
 知りたくもない。
「ええ?」と私の前に立つ父親が、叔父とは対照的に無遠慮に驚いて、誰だかわからない親戚の名前を言う。
 さっき年の離れた従姉の話をしていたから、この話もそうなのだろうとなんとなくわかる。
 叔父は「もう、大損害」とますます声を潜める。「そっとしておくしかないね」と続ける言葉に、わずかに侮蔑が混じっている。
 父親の背中が「親はたまんないだろうな」とぼやく。
 連縄の下のほう、棚の天板に何に使ったのか、工具が転がっている。
 今これを手に取って、自分の首を一思いに―、というのはどうだろう。
 一思いにできるほど作りに詳しくないから、無理か。
 そんなことを私が想像しているとは、叔父も両親も、まさか思わないだろう。
 なんて考えれば優越感を稼げる。
 このやり方はいつでも使えるし、普遍的なので優れている。
 普遍的なものは、優れている。
 すると突然
「その点、まふゆちゃんは」
 と名前が出たので、反射的に「優秀で」か「美人で」の分岐に身構えてしまう。
 叔父が言ったのはどちらとも違った。

「心身ともに健康でよかった。子供は健康で育ってくれるのが一番だから。そうすれば親としてもね、老後も含めて安心なんだ」

 とりあえず「ありがとうございます」と返したあとで、いま自分が何を言われたのかだんだんわかってくる。
 私の横で、ずっと黙っていた母親が口を開く。「そうよ、親の一番の願いは子供の健康なんだから」

 ***

 気がつくと、Amiaが本題に戻っていた。
《あくまでも将来的には、だけど。誰が作ってるのか、見えるようにしていった方がいいんじゃないかと思って》
《何それ。クレジット付けよう、みたいな話? それはKと決めたんだから、今更じゃない?》
《えーと……実はミクがすごく大事な存在だったのに、ボクたち知らなかったでしょ? なんていうか、だんだん悪くなっていく前に、誰かが気づけたほうがいいじゃん?》
 ミク、か。
 カウントダウンパーティーでは、楽しそうにしていた。
 テキストチャットに文字を打ち込む。

 >雪:離席するね。

 静かにドアを締めて、足元の常夜灯を頼りに廊下を歩く。
 両親の寝室を通り過ぎて、洗面所につく。

 タイミング悪く、換えの歯ブラシのストックが1本しかなかった。大抵、2本はあるのだが。
 これを持ち出せば、翌朝に露見してしまうかもしれない。

 と諦めそうになったが、思いついて、暗くしたままのリビングで小物入れを引き出してみる。
 父親は、出張先からアメニティをわざわざ持ち帰ってくる癖が抜けないのだ。

 部屋に戻ってイヤホンを装着すると、まだ何か話している。
《お絵描き配信してみるとかさ~》
《私は、そういうのじゃないの》
「そうだ」私は切り出した。「歯ブラシと歯磨き粉、準備してきたよ」
《何? 歯磨き配信?》Amiaが適当なことを言う。《……え? やだ雪マニアック~……みたいな話? え? 今から? マジで何?》
「ミクに歯磨きさせる」
《ミクの歯磨き配信? いや、さすがに段階ってない?》
 ミクの歯磨き配信?
「ミクの歯磨き配信?」
《ミクの歯磨き配信?!》Amiaが大声を上げた。
 何を言っているのだろう?
「ミクの歯磨き配信……は、絶対に、させない」
《うん。びっくりした。アングラ感出てきちゃう》
「そうじゃなくて、セカイで虫歯になってしまったら」と口に出してしまうともう、恐ろしい想像がきりもなく浮かんでくる。
 私は表現を選んだ。「助からないよ」

 ***

 人形の帽子が変わっていると思ったら、クラッカーだった。

 セカイの一角にまだパーティーの痕跡が残っているのが、その空間だけが際立って見えるから、すぐにわかる。
 片付けたと思っても、完全に元通りにはならないのだ。

 奏がミクに「素敵な帽子だね」と声をかけると、マフラーとブランケット、靴下と手袋に身を包んだミクが
  「この子も温かいといいな、と思った」
 と言ってクラッカーを傾け直す。隠れていたマリオネット人形の顔が現れる。
 有名な昔話からの連想だろうか、人形の表情がどこか安らいで見える。

 絵名が黙って歩み寄って、ゆるみかけたミクのマフラーを整える。
 瑞希も「ミク、偉いな~」と言って、ミクが微笑む。
 クラッカーの帽子にものを考えさせる力があるわけではないのに、人形が表情を帯びるのは不思議だと思う。

 それが済んだので、私はミネラルウォーターの小さな瓶と紙コップを持ってミクの手を引く。
  「あまり遠くに行かないでよ」と瑞希が言うので、頷いて返事する。

 もっと曖昧な場所にいたい。
 壁のようなオブジェクトの陰に入ると、絵名と瑞希の話す声も、遮られてほとんど聞こえなくなった。

 ミクを抱きかかえるようにして、壁に背中を預けて座る。
 豊かな髪を両脇に流して、後頭部を私の首に当てた。
 というところで、思いついて
  「マフラー、絵名には悪いけど一度外そうか」
 と言うと、答えが「いや」なので驚いた。
  「汚したら悪いよ」と言っても「いや」としか言わない。
 私が慎重になるしかないのだろう。

 ミクに口を開けてもらった。
「このまま開けててね」と言葉でも言いながら、指でも軽く押さえる。
「わかった」
「舌もおとなしくしてね」
「ん」
 学校で習ったブラッシングも、二人羽織みたいになると難しい。
 角度を気にする以前に、歯と歯茎を区別することさえ、他人の口だと簡単ではない。
 とりあえず、前歯から始めてみる。
 しゅくしゅくしゅくしゅくという音に合わせて、ミクの後頭部が小刻みに揺れる。
 つられて髪の房も、私のカーディガンを撫でる。

 私とは頭のサイズが違うな、と気づいた。
 歯のサイズも、全体のサイズも、ほんの少しだけ小さい。
 だから、自分の頭がミクの位置にあったらというイメージとは、少しだけ齟齬が生まれる。
 最近、電器店に寄ってペンタブレットを触ってみたときに感じた変な気分に似ている。
 ずっと昔、足の第二指と第三指がうまく識別できなくて、見ながら触っても納得できなかったときの気分とも。

 歯の数を数えながら、隣へ、また隣へと移ってゆく。

 ***

 しゅくしゅくしゅく、という音の中から「まふゆ、苦しい」と聞こえて、私は目を閉じたまま、ミクの両顎を固定していた指を緩める。
「痛かった?」と聞いても、ミクの身体に反応はない。
 もう少し指を緩めて「ミク、これでいいかな」と言いかけたが、言葉が継げなかった。

 強烈な違和感を覚える。

 英和辞典に印刷された子音の一覧表が鮮明な白黒でフラッシュし、パステルカラーの口腔イラストが展開されていく。
 調音部位。
 ほの赤い唇。
 ベージュ色の舌。

 でも目を開ければ、鮮明な白黒もパステルカラーも、このセカイにはない。
 私はゆっくり息を吸って、吐く。
 すり鉢状の穴を気体が流れて、湯気が生まれて、ミクの額を湿らせるのだろう、
「まふゆ、くすぐったい」とミクが口を開けたまま言う。
 ミクが温かいといいと思う。

「ミク、もう苦しくない?」と呼びかけると、ミクの眼球がきょろ、と反応する。
 覗き込めば瞳が見えそうだ。
「大丈夫」とミクが言う。
「苦しかったらいつでもすぐ言ってね」と私は言う。

 壁に体重を預けて、もう一度目を閉じる。
 しゅくしゅくしゅくしゅく、とリズムをとる指のことさえ気にならなくなって、脱力していると、腹話術人形を抱いているような気分になる。
 でもそうではない。
 ミクは確かに話している。
 私と声の出し方は違うかもしれないが。
 むしろ、抱いている私のほうが人形なのかもしれない。
 そして腹話術人形が抱かれるものなら、私は抱いていながら、抱かれているのだろう。

 1週間に1本なんてペースで、歯ブラシを取り替えるようになったのはいつからだろう?
 毎朝、ストックがないと不審に思われるようになったのは。
 アメニティの歯ブラシなんて見向きもしなくなったのは。
 変わっていって、その変わっていき方すらも変わっていく。

 食事をしたら虫歯になるかもしれない。だから歯磨きをしないと助からない。
 歯磨きすれば大丈夫なはずだ。
 そのように考えることで助かっていたのは、私のほうだった。

 ***

 ゆすいだ水が、音をたてて紙コップを叩いた。
「また磨きに来るね」
「うん」
「今度は、もっといい歯ブラシを持ってくるよ」
「これがいい」とミクは聞かない。
「ふつう、1回しか使わないんだ」
「これが、いい」
 しばらくは、歯ブラシを保管しておかなければならないなと思う。
 でも、ずっとではない。
 歯ブラシというのは、そういうものではない。
「わかった。それじゃ」と言って別れた。

 戻って、瑞希に声をかける。「瑞希。スープなんだけど、考えてると思う」
「あっ、お疲れ。ごめん、何?」
「スープ。考えてると思う」
「ん、……あっ! 茹でガエルのやつ? えっマジ? まふゆってそうなんだ。意外かも。いや本当に意外だけど、そうだよね!」瑞希のテンションが妙に高くなった。

 言わなければよかったかもしれない……。

 でももう遅くて、瑞希は二人まで呼んでくる。
「絵名! まふゆ、カエルスープは考える派だって」
「だから、スープの話しないでって言ってるでしょ!」
 と絵名は怒るが、静かになって「……じゃあ、まふゆは死んだあとも何かが残って、考えるって信じてるわけね」と質問してくる。
「死んだら普通、考えられないと思う」
 と答えると、「ほんっとに何言ってるんだか……」と呆れられた。
 それでも瑞希は上機嫌なままで、「いやー今夜はいいこと聞けたね! じゃあみんな、おやすみ!」と言い放って自分の部屋に帰っていく。
 絵名は「おやすみ……」と見送って、私を見据える。「あのね。こういうのって、気軽にする話じゃないから。カエルじゃないけど、こういうところから変になっていくかもしれないから、少し気をつけてよ」
 そこに奏が「わたしは大丈夫」と口を挟むと、「まふゆにとって必要なら、私も少しは付き合うけど」と露骨にトーンダウンする。
 なんなんだろう?

 奏が「何か、考えが変わるようなことがあったんだね」と聞いてくるが、ミクの声の出し方のことをどう話していいかわからない。
 それ自体はなんでもないことで、でもカウントダウンパーティーから始めたとしても、ミクとの出会いから始めたとしても、もっと前から始めたとしても、私にとっての意味はうまく話せそうにない。
 きっとこれは、私とミクの間だけの秘密なのだと思う。