黙って帰る

プロセカ二次創作小説。初出:pixiv投稿作品、2021年1月2日。のちに加筆・修正。

 1

 私が小さな頃には「ガラケー」というものがあって、電話機なのに二つ折りで開けば片側は小さなディスプレイ、反対側には物理キーが敷き詰められていたというから、今でいう電子辞書みたいなものだろうか。
 なんていう連想は間違っていて、インターネットで検索すれば「電子辞書 VS 紙の辞書」みたいな古い記事を見られて、電子辞書のすがたが昔からそれほど変わらないことがわかる。
 だから「今でいう電子辞書」なんて表現してしまうのはおかしい。私にとってガラケーは遠く、電子辞書は近い。それだけのことだ。
 で、そういう間違いを起こすのは、私がまだそれほど生きていないからだ。
 私は大して何も知らない。
 頭ではそうやってわかっていても、ガラケーと電子辞書を結び付ける直感は消えてくれない。
 むかしむかし、電子辞書は電話番号を振られて管理されていました。かれらは不自由でした。終わり。

 もちろん両親もガラケーを使っていた。
 昔住んでいた家のテーブルの白い天板から浮き上がるように、二つ並んで青色と緑色の、不純な結晶のような塊が転がる。幼い私の目には、鍵みたいに見えた(たぶん、幼稚園の職員室の壁に吊り下がっていたキーホルダーからの連想)。
 二つのガラケーは、あるのかないのか判然としない、ぎりぎりのところに属している。
 くすんだ白を地として配置された青と緑のすがたは、私が回想することによって繰り返し上塗りされてきたもので、特定の光景に根ざしているのか、あとからいろいろな記憶をブレンドして作り上げたものなのか、わからない。

 どうしてそんなことを考えたのだろう?

 毛布から頭を出す。
 世界から弱音器が取り去られる。
 つけっぱなしのパソコンや空気清浄機、アクアリウムが立てるかすかな振動音。そこに今日は、雨音が加わっている。ベッドの縁に指を沿わせると、雨粒が屋根にもたらす微小な打撃が、壁からベッドへ、そして私の身体へと伝わる。
 私は雨の打撃を感じている。
 私は雨に打たれている。
 呼吸はもう、落ち着いていた。

 どうしてそんなことを考えたのかといえば、さっきミクに話してきたからだ。両親のガラケーと同じように、あるのかないのかわからない領域に属する記憶を。
 雨が降るたびに思い出し、上塗りしてきた記憶?
 というのも間違いで、思い出すトリガーが雨だっただけだ。
 私が何をしていようが雨は降って、その多くを私は忘れている。
 それだけのことだ。
 セカイでは雨が降らないから、思い出すこともないだろう。

 ***

 もちろんお酒に酔ったことはないので、私のなかで「酩酊感」という言葉はどんな体験とも結びついていない。
 同じような言葉はたくさんあって、うまく表現しづらいときの仮の入れ物に使える。
 だから、セカイに入る経験を、今だけそのように呼んでみる。

 最初は、天地もわからない。
 グレースケールの広がりに投げ出されてじっとしていると、やがてひとつの輪郭を認める。それは動いていて、つまり私の同類であり、私と関係をもっている。「向こうのほう」にいるのだとわかる。
 平均すればやはり灰白色の領域が、こちらを認めたらしく近づいてくる。その挙動が、一面に展開したオブジェクト群と異質なのは明らかだ。

 まず、白いな、と思う。
 これが酩酊感のトリガー。

 しだいに赤いリボンと、相異なる色をもつ左右の目が彩度によって際立ち(本当はそれから、緑色の爪がある)、詳しい形を把握できる。紛れもなく、ミクが歩いてきている。
「歩く」ということが理解できる程度には、重力方向もはっきりしている。今、ここが地表で間違いない。私も歩みを進める。
 私たちが近づきあううちに、他の構造物たちのありさまが把握される。

 ミクと私の一歩一歩で、到達場所の可能性がみるみる刈り込まれて、やがて私たちの邪魔にならない一角が選ばれる。
 酩酊感はこの選定過程で最大になって、そのまま持続する。

 いつも、私たちが隣同士やら他のポジションでひとしきり寄り添いあって、別れるまで続く感覚。

 さっきもその酩酊感のなかで、私はミクに話し始めた。
 記憶のなかの私の話は、詞を推敲するのに似て、揺れ動く。

《雨のことは前に教えたね?/今日、雨が降ったよ。(降ってるな、って思った。)/昔、ひどい雨に降られたんだ。/私がすごく小さい頃の話。》

「まふゆが、すごく小さい頃?」とおうむ返しにして、ミクは「お花」の仕草をした。

《……そんなに小さくはないよ。/ミク、私は夜の道で、雨に降られている。/何かの帰りかもしれないね。(ピアノの帰りかも。)/でも、鞄も持ってないし、傘も持ってない。》

「傘がないときは、雨宿り」
 ミクはおそるべき記憶力を示した。確かに以前、そんなことを教えた。

《そうだね、雨宿りすればいい。/だけど私は一人で、なすすべなく降られている。》

「どうしようもないの?」とミクは言う。
 どうしようもないんだよ、過去のことだから、とミクの方に顔を向けようとして、やめる。
 ミクは隣にいても、あらましはやはり白い。けれども詳しく見ると、衣服の装飾の細かい弛みや、思いがけない可動部位が刺激となって、気を取られてしまう。そういう細部に目が行くともう、ミク全体のことはわからなくなってしまうようだ。だから私はぼんやりと形を捉えるしかなかった。

 というところまで思い出して、ベッドの中の私は考える。
 それとも、絵名や瑞希は違うのだろうか? 絵画や立体造形を行う二人なら、ミクの姿も全体的に捉えられるのだろうか。
 けれども今は二人は関係ない。

 私は続ける。

《すると、自動車が減速して近づいてくる。/開いていく窓から顔が覗いて、大丈夫? って言う。》

 ミクも首を傾げて、「大丈夫?」と繰り返す。
 私の記憶を再現するようでもあり、話している私に改めて問うようでもある。
 二重の質問だということにして、私は両方に答える。

《大丈夫じゃないし、大丈夫じゃないよ。/こういうときって、危ないんだ。/知らない人についていっちゃ駄目。》

「ついていかない」とミクは決意したように言う。
 私は満足感を覚える。

《電話を貸してくださいと頼んだら、スマートフォンを手渡してくれた。/そのとき私は、これを投げ捨てたら何が起こるかな? って思った。》

 今思うと、夜、一人で雨に降られて、誰かにスマートフォンを貸してもらって、家族に連絡したという出来事は実際にあったのかもしれないけれど、もうよくわからない。
 身体に刻み込まれているのは、「これを投げ捨てたら何が起こるかな?」という思いつきだけだ。
 あとの部分は、この言葉を核にして膨れ上がった物語にすぎないのかもしれない。

《ミク、あのとき投げ捨ててたら私、ここには来られなかったと思う?》

 問いを乱暴に投げつけて、私は待つ。
 ミクはしばらく黙ってから言った。

「……心理テスト?」

 夢のなかの純化された感情に似た、鮮やかな衝撃を、思い出すことでもう一度経験する。

《心理テスト、ではない……かな》
「そうなんだ。まふゆ、どうしてセカイに来られないと思ったの?」
《わからない》
「その、投げようとしたスマートフォンが、まふゆのスマートフォンなの?」
《違うよ》
「スマートフォンがないと、セカイに来られない?」
《そんなことないよ》
 私は苛立つ。わかりきったことを聞かないでほしい。
《ミクは最初、パソコンに来てくれたね?》
「……やっぱり、どうしてセカイに来られないのか、わからない」

 苛立ちが止められず、言ってしまう。

《あのとき投げてたら、このセカイは生まれなかったかも》
「まふゆ、」ミクが遮った。「まふゆの想いがセカイになったんだから、セカイはあったんだよ」
《それは1年前の話だよね。私がしてるのは、昔の話》
「セカイはあったんだよ」
《セカイができたときに、ずっと昔からあったことになった、ってこと?》
「ううん、セカイはあったよ」

 呼吸が苦しくなるのを感じた。
 切迫感で集中力が増したのか、私は子供のように食い下がった。

《じゃあ、スマートフォンを投げてたら、私は想いを失ったんじゃないかな》
「まふゆ、スマートフォン、投げたかった?」
《投げたらどうなるんだろうと思った》
「どうなると思った?」
《ミク、善意って知ってる?》
「……善意」
《人の善意を裏切ると、心がなくなるらしいよ》
 ずっと前に、そう母親が言っていた。

 ミクは黙った。
《そのほうが楽だったかもしれないね》
 私が付け加えても、もうミクは何も言わない。
 ように見えた。

「まふゆ、悲しかった?」ミクが唐突に尋ねた。

《わからない。どうしてそんなこと聞くの?》
「心理テスト」

 強烈な不快感を覚えて、私は言う。
《直接聞いたら、心理テストにならないよ》
「そうなんだ」
《心理テスト、禁止ね》
「わかった」
《心理テスト、奏に教わったの?》
「そう」ミクはあっさり認めた。
「わたしがまふゆの想いから生まれたなら、まふゆのことがわかるかもしれない、って言ってた」

 また来るね、と言って私は音楽を止める。
 そこは自室で、そのまま照明を消してベッドに潜った。

 ***

 サークルに出る前に、仮眠を取ることが増えた。
 奏たちをセカイに出入りさせてから、ミクといても以前ほど休息できなくなったからように感じる。今日のように息苦しくなることはなくても、以前ほどには、良くない。
 部屋を暗くしてベッドに横たわるといくらか休まるが、それでも欠落は埋まらない。

 どうせ何も生きていないと思って(水草は生きている)、アクアリウムを止めてみたりもした。淡く光ったり、音を立てたりしているのが、無心で眺めるにはいいけれど、安らぎを求めるには過剰なのかもしれなかった。
 というのは理屈で、本当は当てつけだった。
 それでも何にもならない。
 結局、水を換えて、もう一度動かす。
 静止したセカイの中でミクだけが反応を返してくるのと、自室でアクアリウムだけが動いているのは似ているだろうか?
 私が空っぽなのと、アクアリウムが空っぽなのは似ている。
 ねじれた入れ子関係がある。

 それでもやはり、ミクと二人でいると、ミクのいる側に少し感覚が戻ってくるように感じる。
 内部に勾配が生じることで、身体が確かに存在しているのだと実感できた。

 雨に降られて身体が冷え切ると、肌の上を水滴が流れるのだけがかろうじて温かい、という状態になる。
 それも、温度差という勾配によって感覚が生まれているわけだ。

 部屋を暗くしていても瞼がちらちらするのは、パソコンのLEDの明滅だろう。
 何かで覆ったほうがいいのかもしれない。
 布で覆ったアクアリウムは、ライトが内側から水草を透過し、穏やかな緑色に映っている。かれらは生きていて、光合成している。
 ミクは光合成しているだろうか?
 奏は光合成していない。
 そういえば、カップラーメンを食べたことがない。
 スープを飲むとよくないのよ。
 母親は昔から用心深い人だった。
 塾がある日は、母親は自分のスマートフォン端末を目立つ袋に入れて、みずから通学鞄に差し入れた。4年生まではまだ塾が週2回だったし、前の家には固定電話を引いていたから、手放しても不便は少なかっただろう。
 私はそれにけっして触らずに日中を過ごした。塾が終わって迎えを呼ぶ段になって、初めて取り出す。
 どれだけ気を付けても足りないくらい危ない物なのだ、と教えられていた。高価なものなのだとも。
 袋の中からずっしりした筐体が現れると、自分の価値の文字通り重心が、母親のスマートフォン側に傾くように感じた。

 幼い私がスマートフォンを手渡されたとき感じたのは、次のようなことではないかと思う。
 前提として、他人の好意には、タイミングよく応答しなければならない。適切なタイミングで、適切な価値の応酬をするゲーム。
 で、好意が一番高まったときに台無しにすると、巨大なナンセンスだけが生まれる。
 裏切りとかそういうことを超えた、圧倒的な無意味だ。
 そうなるともう、何が起きるのかわからない。
 セカイが消えたり、私が消えたりしてもおかしくないような、無意味。

 そういえば、絵名はそういうタイミングが見えやすい。カチ、カチと押したくなる、身体にフィットした心地よさというのだろうか。
 なんだか、そういうものがある。
 たぶん瑞希も、それが面白くて、一緒に街に遊びに出たりしているのだろう。

 この街では、あまり雨が降らない。
 中等部のとき、弓道部で富山に合宿に行ったら雨続きで、地理の授業で習ったとおりだと思った。
 湿度が変わると、それだけで矢の音が変わる。
 離れた場所には、別の音がある。

 いつの間にかボイスチャットが始まっている。
《25時だね。始めようか》
《お疲れさま》
《お疲れ~》
《絵名も瑞希も、もう入ってるね》と奏が言う。《まふゆもいる?》
《うん、いるよ》私は嘘をついた。

 ***

 目が覚めた。うまく眠れたから、少しは回復できただろうか。
 時計を見るとまだ25時には少し間がある。再び目を閉じてみるが、眠れそうにない。

 諦めて机に向かう。

 まとまった問題に取り組む時間はないので、小さい単位での訓練にする。手数の多い定積分の計算練習。
 面倒な計算で間違わないのが医学部受験では重要らしい。これも母親が言っていた。
 計算量を見積もって、10分で3問を目標にする。

 部分積分を2回繰り返すもの。

 そういえば今日、クラスの子が「朝比奈さん、英語できてすごいよね。どうしたらできるようになるのかな」と聞いてきたが、「とにかく読んで、解くって感じかな」としか答えられなかった。それは本心で、文法と単語さえ押さえていれば英語の試験なんて子供の遊びみたいなものなのに、周りの子たちはなんでやらないんだろうと思っているが、それは言えない。
 朝比奈さんらしいね。ほんとすごいよね。終わり。

 分母の二次式を平方完成し、逆正接関数を微分した形にするもの。

 進路指導教員にもっと英語の実力を伸ばしたいんですと言ったところ(どうしてそんなことを言ったのか覚えていないが、どうせ会話の流れだろう)、有名なトップ進学塾が編集した単語帳を薦めてきた。それは終えた、と言うと教員は感嘆してみせて、正直それ以上となると、国内の大学受験に関してはオーバーワークだと言う。ニュースなどを読もうとするとまだ難しい、というこれは率直な思いを伝えると、教員はやや困ったような顔をした。その通りで本式の英語とはギャップがあるのだが大学に入ってからでいいのでは、いろいろ忙しいだろうし、というようなことをもごもご言う。
 それとも海外進学を考えている? もしそうなら全然話が違ってくるから、決めるなら早いほうがいいよ。終わり。

 パラメータ変換後の形に絶対値が含まれるため、積分区間の途中、正負が変わるところで分割するもの。

 現行の高校数学の科目に「行列」の単元はないが、大学に入ったら必ず使うことになるからやっておくといい、と父親が言ったことがある。母親も、なんの役に立つかわからないから、なんでも経験しておくのはいいことだと言う。平面図形の回転と拡大・縮小に関する問題は「複素数平面」と「行列」のどちらかで扱われるけれど、入試ではどちらの知識を使って解いても不利に採点されないらしい。
 受験する人間がすべて、普通の高校の教育課程を経ているとは限らないからな。
 いるだろう世の中には、帰国子女とか。
 それに、無駄なことは2年生のうちに済ませておいたほうがいいのよ。
 3年生になったら受験に専念することになるでしょう?
 終わり。

 パソコンから鋭い通知音が飛んだ。25時だった。

 ***

 計算と同じで、作詞作業も手が律速段階でなければならない。
 そうでなければ時間の無駄だし、肝心なところに頭を使えない。

 ナイトコードのチャンネル右上端のメニューから「Launch Web GUI」を選んでクリックするとデスクトップアプリが引っ込み、代わってWebブラウザに新しいタブが起動して、「新曲(仮)」チャンネルに対応するナイトコードストレージサイトのフォルダ画面が表示される。
 KがアップロードしたプロジェクトファイルをダウンロードしてDAWに読み込み、並ぶノーツに目を走らせながらデモを聴いて、五線紙に聴音する。
 といっても、リズムと旋律が上行か下行かだけ拾えれば、さしあたり十分だ。
 フレーズ単位に音符をグループ化して、モーラ数をメモする。
 できたらスマートフォンでPDFに撮る。
 後から印刷すればいい。ここまでは自明。

 ボイスチャットの音量を上げると、いつも通りえななんとAmiaの雑談が聞こえてくる。

《でも、私のことずっとフォローしてたらわからない?》
《まあ、えななんとフォロー関係にあるっていうのはある意味リスクだけど?》
《……どういう意味》
《うーん……》
《あと、自撮りアカは別に裏アカじゃないって何回言わせんのよ》
《ゴメン! ……今度なんか奢らせてください》
《パンケーキ》
《承知しました》
 私は思いついて言った。
「罰金を課すと、罰金で許されることを当てにして不正が横行するらしいよ」
《パンケーキは罰金じゃなくてボクの気持ちだからいいの! えななん、詳細はDMで》
《弟の分とで2個ね》
《なんで?!》

 聞き流しながら、事前に用意しておいたテーマ語彙リストから使えそうなものを残し、Kにメッセージで送って、今日の私の作業は終わりだ。

 で、会話が途切れたところで、私も話す。
 話でもしないと、やりきれなかった。

「そうだ」と言えば流れをリセットできる。「最近、学校でちょっとおもしろい子がいてね」
《うん……おもしろい?!》とAmiaが大声を出す。《ついにおもしろいって言った!》うるさい。
「なんだか、積極的に話しかけてしまうというか」
《ふーん。良かったんじゃない?》とえななん。《まあ、ほどほどにね? あんた、リアルでも重いんじゃないでしょうね》
 私は無視した。「他の子にはない、独特の感じがあって……とても、明るい」
《なんだろう、なんていうのかな……光に向かっちゃうって感じ?》
「光? 虫みたいに?」
《いや、そういうことじゃないけど》
「光か……」
 私には思い当たるところがあった。
「うん。私より明るいし、すごく足が速いんだ」
《いや、大抵のヤツはあんたよりは明るいでしょ……ていうか、体育祭の時の子? 一緒に二人三脚に出たっていう後輩の。前、話してたじゃない》
「そうだっけ。Kには話したと思うけど」
《ちょっと雪、ひどいな~ボクたちもいたよ~! 大丈夫? ボクたちのことカウントしてる?》
「? 4人?」
《……あー……なんかゴメンね?》
「大丈夫。気にしなくていいよ」
《雪、》と作業開始ぶりにKの声を聞いた。《いいと思う。このまま進めて。来週くらいに全体が見えればいいね》
「わかった。じゃあ、落ちるね」

《待って。ラフ見てから出てって。K、画面もらうね!》とえななんがタブレットの画面を共有する。
 私の画面は私のものなのに、どうしてもらったり取ったりできるのだろうか?

《あっ、じゃあボクも投稿するね。今度使おうと思ってるんだけど》
 ストレージサイトを読み込み直すと、Amiaが投稿した「a.mp4」(なんてファイル名だ)がファイルリストの先頭に来ていて、バージョンが2.0から3.1に上がっている。
 マイナーバージョンも上がっているということは、チャットに投稿したあとAmiaは気が変わってさらに動画を編集し、ストレージ上に直接アップロードし直したのだろう。そうすればチャットの投稿から再生されるバージョンも、メジャーバージョン内の最新版に切り替わるからだ。デフォルトではオフだったのを、あとから加入したAmiaの要望でオンにした機能。
 あとから入ってきたものが、もともとあったものを変えてしまう。

「a.mp4」をクリックすると、バージョン2.0をKと私が閲覧した履歴が並んでいる。えななんは見ていないのか。
 Amiaの課金ユーザーであることを示す色付きのアイコンの下にプレイヤーが表示される。再生すると、数秒のうちに立方体が崩れて掻き消されていく。
 前回からどこが変わったのか、わからなかった。

 なので、イラストの方にコメントすることにした。
「色が少ないね」
《それは、そういう絵だから……増やすとまた、テイストが違くない?》
 テイストか。「そういうの、よくわからない」
《は? あんた、すぐそれ言いすぎ》
 また「は?」って言ったな、と思う。
 私がチャットにいる短時間でこれだから、毎日2~3回は言っているのかもしれない。
 ざっと1年と思うと、そろそろ1000回に達していてもおかしくない。
 それだけの積み重ねがあるともいえるし、その程度だともいえた。
《なんか、声に元気がないんだけど》
「そうかもしれない。じゃあごめん、やっぱり落ちるね」
《わかった。おやすみ》と不承不承という感じだが、えななんも言う。
《おやすみ~》とAmia。

 Kの声がないので、テキストチャットにもpostしておく。
 >雪:今日は落ちるね
 に対して、KとAmiaが「了解」、えななんが「りょ」をつけた。
 と思ったら、Amiaも「りょ」に重ねてきた。
「りょ」……?
 最近、えななんがつけるリアクションの傾向が変わってきたな、と思う。

「了解」の略らしい。見たことがなかった。
 私は大して何も知らないのだ。

 2

 食事を取るたびに、人体が物体にすぎないことを実感できる。
 噛んで崩して、そのあともどんどん崩して、取り込む。

 どういうわけか、料理というのはずいぶん手間をかけて形を作ってから、崩すことになっている。
 それが愛情なんだとか言う人もいる。
 壊すために作るという、その落差が面白いのだろうか。

 ある夫婦がいて、一人娘を賭け金にしてギャンブルを行いました。かれらは大勝利しました。終わり。

 そういう私として育ったのが、これまたどういうわけか、この私だ。
 どうしてだろう? と思うことがある。
 どうして私は優秀ないい子なんだろう? というのとは違う。それはいくらでも説明できる。
 環境や才能。
 良い習慣とたゆまぬ努力。
 呪い。
 私が知りたいことは、そういう説明を許さない。
 どうして優秀ないい子になったのが、この私なんだろう?

 私は両親にとっての当たりくじだろう。けれども、私自身が当たりくじを引いた人間かというと、それはわからない。
 それはもう比喩の限界を超えている気がする。

 とはいえ、都合がよいのは間違いない。
 私がいるだけで便宜を図ってもらえる。この身体はある意味、頼りになる。

 ***

 登校途中にコンビニに寄って、とりあえずPDFを2部印刷した。

 で、こうして育ってきたのを、裏切りを超えたナンセンスの領域まで持っていくには、どうすればいいだろうか?
 言うまでもなく、わかっている。

 壊れるために育つのだ。というか、すでに壊れるところまでは達成した。
 あとは突然消えればいい。
 当たりくじが急になくなって、びっくりだ。

 それこそが解放ではないか、と思って、そうではないなと思う。

 解放。
 一度は「糸を切ってくれた」とポジティブに捉えたはずなのに、気持ちが簡単に反転してしまうのはどうしてだろう。
 ポジティブであろうとは思わないけれど、こういう仕組みは面白いと思う。

 抑鬱的思考を垂れ流せば、文字数は増えるし、尺は埋まる。
 こんなに簡単なことなのに、どうしてみんなやらないのだろうと思う。

 でもそれでは私の音は、伝わらなかった。

 常にそこにあるものに目を向ければいいだけで、それは死が避けられないのに似ている。
 子供にでもできることだ。抑鬱こそが一番ありふれている。

 ありふれていない歌詞を作ろうと思う。そこに本当の私があるはずなのだ。

 ***

「朝比奈さん、ちょっといい?」と手招きされる。何ていう子だったっけ? 2年に上がったときにクラスが替わったから、だいたい覚え直しになってしまった。
「この軌跡の問題ね。解と係数の関係を使って解くんだと思ってたんだけど、うまくいかなくて」とノートを見せてくれる。
 なにか頑張って式変形をしているようだが、同じところをぐるぐる回っているだけで、証明は一歩も進んでいない。「解と係数の関係で、書き換えたら次は判別式だよね?」
「問題を見せてくれる? ……これは条件が、対称式じゃないね」
「対称式?」
「そう。解と係数の関係から手に入る情報は、二次方程式の解がαとβだったら、α + β と αβ でしょ? こういう基本対称式を組み合わせても、作れるのは対称式だけ」まで言ったところで、対称式という言葉の意味がわからなかったのだと悟る。「つまり、二つの文字を入れ替えてももとと同じになる式なの。でも今回の条件は、u = x + 2y だから、xとyを入れ替えると、2x + yになって変わってしまうね。つまり対称式じゃない。だから同じ解き方はできないんだ」
 そう言うと、その子は「……じゃあ、どうしたらいいの? αとβを……」と言いかけて黙ってしまう。

 後ろ歩きで、黒板にゆっくり近づく。「解と係数の関係のことは一度忘れて、どういう問題なのかちょっと考えてみようか」チョークを取って、黒板に二つの二次元座標軸を描く。

 x-y平面と、u-v平面。

「たとえば、x-y平面の原点 (0, 0)がどこに動くかって考えると、u = x + 2y だから0、v = xy だからこれも0。つまり、u-v平面の原点 (0, 0)に動く」と言いながら、u, vの定義を黒板に書いておく。
「もう1個、例ね。(x, y) = (1, 1) だったら…… (u, v) = (3, 1) に動くね」と、2つの座標に点をプロットする。
「じゃあ、質問。 (x, y) = (0, 1) はu-v平面のどこに動く?」と質問しながら、覚えてあったx, y条件をチョークで素早く書きつける。0 ≦ x ≦ 1 かつ 0 ≦ y ≦ 1。一辺1の正方形の領域。
「……(2, 0)」
「いいね、正解!」大丈夫そうだ。
 と思ったところでその子はさらに続ける。「あっ、待って。じゃあ、xとyが動くと、x + 2y は0から3までだよね。で、xy は0から1まで。ということは軌跡は長方形? 横3・縦1の」
 私は黙って聞いている。
「あ、でも (x, y) = (1, 0) は (u, v) = (1, 0) に動くから、端っこの4点を結べばいい? だから四角形? じゃなくて今回は、三角形になるのかな?」
 そこからだったか……。軌跡というのは与えられたx, y条件にたいする必要条件を表しているなかで最小のもの、などと言っても仕方ないだろう。
「端っこの4点を結んだ四角形が答えになるのは、uとvが両方、xとyの一次式の場合かな」と、とりあえず言って時間を稼ぐ。

 自分自身に教えるように学べばいいのよ、と母親は言っていた。
 かつて私はどうやってここを納得したのだろう?「軌跡」という考え方をどうやって自分自身に教えたのだろう?
 私は小学生の頃の記憶を呼び出す。
 私は小学生になる。

 特別な筆がありました。/こちらの世界に絵を描くと、向こうの世界にも絵が描かれます。
 けれど、そのときに形が変わります。/大きくなったり、小さくなったりする。
 同じところに何回も描かれて、潰れてしまうこともあります。/(だから、こちらと向こうが1対1に対応するとは限らない。)

 その筆を使ってることを知らないで、正方形を塗ってみました。/向こうの世界にできる絵は正方形では全然ありません。
 でも向こうに何か描いてあったら、それはこちらで何か描いていた証拠です。

「……そういうわけで、uとvが何かだったときに、欲しいxとyが存在するための条件を調べる。文字が2つだから、1文字消去。たとえばxの方を消去したら、yの方程式ができるから、これが0から1の範囲で解をもつuとvの条件を調べる。そうすれば、いつもの二次方程式の問題になるね。で、対応するxも0から1の範囲になるように、さらに条件を絞れば大丈夫」
 大丈夫、と言ったがむしろ最後のところが厄介なポイントだと思う。
 でも休み時間はもう残っていない。今はここで満足するしかない。
「ありがとう。なんだか、ちょっと意外だったかも」
「あっ、わかりにくかったかな?」
「……ううん、朝比奈さん、いつも凄いなって思ってたけど」
 そうなるよね。いつもと同じだ。「いやいや」私は微笑んで、黒板を指差した。「これ、もう消しても大丈夫?」
「ちょっと待って、写真撮るわ」と急いでスマートフォンを取り出そうとするので、私は周囲に目を走らせ「あはは。今のは聞かなかったことにしておこうかな」と一応言っておく。
「助かる~消すのは私がやっとくね」とその子は言う。消すくらい構わない、と思ったけれど押し問答になっても面倒だった。「わかった。ありがとう」
 足早に教壇を降りると背後でシャッター音が鳴った。まっすぐ廊下に出たが、近くに教師の目はなかった。

 ***

 数学の個別添削を受けていると、足元で振動がした。
 鞄を探るとスマートフォンの画面が光っている。職員室なので、鞄の中で操作する。
 最新の通知は、見慣れないアイコンだと思ったらナイトコードだ。@hereで送られているメッセージは、

 >K: ミクが喋らない。

「先生、」と切り出す。スマートフォンから目を戻す。
「申し訳ありません、家庭の方で急用が入ってしまって……今日は失礼してもよろしいですか?」と伺いを立てるが、「家庭」カードを切ってしまった以上は形式的な質問にしかならない。
 ということは教員もわかっていて、「うん、もちろん。いつでも答案は見てあげるから」と表情を変えない。「どう? わかりそうだった?」
 素早くペンケースを滑り込ませて鞄を持ち上げる。「大丈夫です。どこが難しいかはわかったので。明日までに考えておきます」
「明日は土曜だよ。じゃあ、良い週末を」
 私は一礼して去った。

 ナイトコードなのだから「家庭の方」で間違いないと思ったのだが、よく考えると、普段より早く帰れば母親が怪しむだろう。そうでなくても、何かの拍子に部屋を訪れられたら困る。
 どこか人目につかないところで、スマートフォンからセカイに入らなければならない(入れるのだと、以前瑞希が言っていた)。
 結果的に先生に嘘をつくことになったと思うと胴体が芯のほうから重くなる感じがする。罪悪感を抱いているのだろうか。
 けれども今の問題はKとミクだ。

 遊興施設に行くも同然のことをしていると思っていたが、学園を出て数分経つと、状況はより悪いということがわかってきた。
 人目につかない場所など、この街にはない。
 少なくとも、思いつかない。
 そんな目で街を眺めたことがなかった。
 学園に残ったほうがマシだっただろうか、と思うが、そういうわけにはいかなかった。
 家庭の事情だと言った以上、あとから教師と鉢合わせする可能性を残すわけにはいかない。職員室だから、他の教師も見ていたかもしれない。

 結局、トレーニングジムに入った。学園のトレーニングルームにも最低限の器具は揃っているから、2年生に上がってからは休日しか利用していなかったが、フルタイム会員のまま放置していてよかったと思う。
 個室に入って鞄からスマートフォンを取り出し、ストレージモードで共有フォルダを開いてみる。やはりデフォルトのWebブラウザでは楽曲ファイルを再生できない。別のブラウザならと考えるのも惜しく、URLをコピーしてナイトコードアプリの自分宛てDMに投稿する。URL文字列に遅れてプレイヤーが埋め込まれるのを待ちながら、端末が消音しているのを確かめる。
 最初から、家に帰るまで待てるとは思っていなかった。
 私は嘘をついたのだ。
 罪悪感が滲むが、今はそれでいい。

 ***

 セカイには誰もいなかった。
 というのは間違いで、ミクが歩いてきた。
 というのも間違いで、歩いてきたのは奏だった。

 奏が腕で示して、初めてミクが近くにいることがわかった。
 静止してただ立っていると、セカイの風景に白く埋没して、どこにいるかわからない。

「ミク、どうしたの」

 答えない。

「大丈夫?」

 ミクは向こうの1点を凝視している。
 そちらを見やっても、靄の中に対象を見失う。

「気分でも悪かった?」

 気分を悪くしたとしたら私だろう。
 奏はうなだれている。

「……ごめん」
「奏のせいじゃないよ。むしろ気づいてくれてありがとう。きっと私が悪いんだ」

 ミクの隣には、奏が楽譜で作った「巣」がそのままになっているのを見つめる。
 私とは営巣のしかたが違うな、と思う。
 体格や作業姿勢の違い、一度に処理できる聴覚情報の差が、持ち込んだ資料の広げ方となって表現されているのだ。

 奏は一曲分くらいの長さの聴覚情報に関しては完全なイメージを持っていて、その内部には即座にアクセスできるようだ。アレンジの相談をしていて気づいたときには、作曲の才能以上に驚かされた。
 テンポをいくつ変えると楽曲の長さが何秒伸縮するか、計算している風でもなく当てる。
 声や手近な鍵盤だけでなく足なども使って表現し、出力装置が限られていることをもどかしがる。
 左手と右手で楽曲のまったく違う部分を同時に呼び出してくる。
 私が小節番号で指定すると、むしろ反応が遅れる。

 無時間的構造と時間的持続の間を自在に行き来する、それがどういう感じなのか、私にはまったくわからない。

 ***

 で、瑞希が来る。

「絵名はどうだった?」と、事情を知っているらしい奏が問う。
「まだ寝てるっぽい」
「そう……昨日遅かったからね」
「あのあと結局徹夜」

「学校は?」
 と問うまでもなく、私服だった。
「いいのいいの。ボクの場合、急に消えても、誰も気にしないから」と言う語尾が笑いに変わる。
「消えても」という言葉を危なっかしく弄して、明らかに私の以前の言動に対する含みがあるけれど、悪意は感じない。
 むしろ滲んでいるのは共感、みたいなものか。
 一度拒絶したはずの共感が瑞希の中で懲りずに持続していたとわかって煩わしい。
 と思う間にも瑞希はさらに話し続ける。
「要は慣れなんだよねー。いればいることに、みんな慣れるし、いなければいないことに慣れる」
「みんな、慣れてくれるものなの?」
「慣れてくれるね。そういうことばっかりの繰り返し」
 今日の苦労を思い出すと、素直に羨ましいなと思えた。
「そう。それで、誰にも見つからずにセカイに来られるんだね」
「でも、ここにはミクがいるでしょ? だからボクが、ミクの話し相手になりたいわけ」

 何が「でも」で「だから」なのかわからない。

「何それ。何か、責任でも負ってるつもり?」
 すると沈黙が落ちる。
 しばらくして、「責任……っていうか、責任感ね。余計だと思う?」と問う瑞希の声色が、少し強張っている。
 そうだよ。余計なことしないで。
 という言葉が自動的に出かかったが、ミクの顔が浮かんだ。
「……余計ではない、はず。瑞希が来て話したいなら、話してあげればいい」
「……よかった。うん、じゃあ、ミクとお喋りできない間も、ボクたち話そうね?」
 展開が意味不明だ。
 でもとりあえず、「わかった」と答えておく。
「よし、約束ね。じゃ、ボクは徹夜して眠いから、今のうちにひと眠りします!」

「私はもう帰らないと」
「サークルの前にもう一度、様子を見に来られないかな?」と瑞希。
「奏が決めて」
「わかった。24時にまた来る。そのあと、歌詞の相談をしよう」

 何を言っているのだろうと思う。
 永遠に生きるつもりなのか? この人間は。

 3

 そういえば、以前瑞希がSNSでシェアしたのが目に留まったのだが、親に「生んでくれてありがとう」という作文を書かせる小学校があるようだ。
 特定の小学校に限った話ではなく、そういう教育メソッドがあるらしい。
 ちょっと信じられないが、そういうことも世の中にはある。

 現に生まれているという単なる事実に喜びを覚えるとか、育ててくれたことに感謝するというなら、私自身の実感としてはわからないなりにも、人の心の動きとしては理解できる。
 けれども自分を生んだこと自体に感謝するとなると、それはもうどういうことなのかまったくわからない。
「ありがとう」という言葉が担える領域を踏み越えているような気がする。

 言葉の使用法を踏み越えること自体に快楽が宿るのだろうか。
 それは正直、作詞する者としてわからない感覚ではない。

 私はきっと、それが模範とされるなら喜んで作文していたし、(恵まれた肺活量で)元気よく読み上げていただろう。
 子供に「生んでくれてありがとう」と発言させることが、その後の人生をどれだけ決めてしまうのか、私には想像がつかない。

 私はそんなことを言わずにすんでよかったと思う。

 この数時間で、改めてそう思った。

 奏は奏なりに、永遠にアクセスしようとしているのだろう。
 私には違うやり方がある。

 ***

 両親が寝静まるのを待って、セカイに入る。

 どうにか、ミクのところまでたどり着いた。ミクは変わらず立って、1点を見つめている。

 ミクはどちらを見ているのだろう?
 こんなこと以前は思いつきもしなかった。
 私がセカイに来るとミクが現れて、というのは逆でずっとミクが居るところに私が来ているのだが、私にとっては違わなかった。
 私が来るとミクが現れ、私と一緒にうろうろ歩いて、やがて前か後ろかたいてい隣に位置を定めて、それですべててだった。
 私が眠るとミクは消えたが、ミクという唯一の向きに安息があることを、目覚めてミクが再び現れるときに安息の側の身体部分が覚えていた。

 セカイにミク以外の方向はなかったのに、マリオネット人形の出現をきっかけに変わってしまった。

 ミクも人形もポリゴンの降り積もった霞をまなざしていて、雨は降らなくても空間が積み重なっている。

 私は、その方向を目指して歩き始める。
 私の背後でミクが徐々に遠ざかり、ポリゴンの不透明な重なりの向こうに消えていくのを思い浮かべる。
 その姿はけっしてゼロにはならないだろう。
 けれども、やがてノイズの中で識別できなくなるはずだ。
 それはそのまま、ミクや、遅れてやってくる三人からも私が遮られて、ノイズと区別できなくなるということだ。

 ***

 いつかは消える。
 何度考えても、同じところにそびえ続けている。
 しかもそれは、ただ何度も考えられるだけではなくて、実際に起きることなのだ。
 (この「実際に起きる」というのは、「ミクがいる」ということに似ている気がする。)

 ただそこにあるものに、目を向けるだけ。
 子供の遊びにも等しい、簡単なことなのに、どうしてみんなやらないのだろう?

 一度壊れた心には、レコードのように抑鬱的思考の溝がついていて、巡ってくる針はすぐにこの溝に落ち込む。何度も同じ思考、堂々巡りの繰り返し。
 そうなるとわかっていても、自力で抜け出すことはできない。身体に刻まれているからだ。
 一度壊れた心は、二度と元に戻ることがない(これもそういう抑鬱的思考で、「先読みの誤り」というらしい)。

 ということ自体、もう何度も考えている。

 これまで作ってきた詞と曲を忘れてみようと思い、諳んじてみる。
 何度諳んじても忘れることができない。

 でもそれもやがて消えるはずだ。

 私は想像する。

 私が消えると、私の部屋には誰もいなくなる。
 両親は出入りするだろうし、警察も来るかもしれない。でもそれは些細なことだ。
 静止したアクアリウムの水は濁り、水草は枯れる。だから真っ先に撤去されるだろう。
 そこは空所になる。
 けれどもそこにアクアリウムがあった事実は変わらない。
 アクアリウムは静止し続ける。

 両親は気を揉み、悲しみ、何年か頑張るかもしれないが、それも過ぎ去る。
 もしかすると、別の子供を育てる。優秀だといいね。
 いずれにしても、たかだか数十年が経過すれば、住む家族は入れ替わり、マンションもなくなる。
 後に何かの建物が立って、いくらかの人間が出入りする。それもなくなる。
 それとも何もない空間になる。
 また建物が立つ。
 そうしたことが繰り返されているうちに、二度と何も建たなくなる。
 いつか私の部屋だった場所は水に沈み、あるいは土に埋まる。
 それでもアクアリウムは静止ししたままだ。

 その間、ミクのもとには誰も訪れない。
 ほんの初めの頃、奏や絵名や瑞希が出入りするけれども、些細なことだ。

 その長い時間を私の生きた時間で割ったその人数分だけ、同じ長い時間が経つころ(私は想像を続ける)、私と、次の私と、次の次の私が、セカイに生じている差分に気がつく。
 セカイ中に展開され、横溢していたオブジェクト群が動力を失って、ゆっくりと沈殿を始めているのだ。

 私を次の私へとどんどん飛ばしていくと、コマ送りのようにして種々様々なポリゴンが沈んでいく。
 大きなものから先に、微細なものは後まで残るが、結局は沈む。
 すると驚くべきことに、しだいに視界の光量が増していく。
 これまではオブジェクト群に遮られていたのだ。
 ゆっくりと、晴れ上がっていく。

 ミクはセカイの夜明けを見る。

 で、それはミクが光に暴露するということでもある。
 直接光を受けない陰にも弱い反射光が届くから、十分な時間が経てば変わらない。
 無数の私のなかで、ミクは褪色していく。
 リボンも、異なる色を持っていた両眼も無彩色になる。
 それでもミクは立ち続ける。

 爪からも色が失せていって、私が手を伸ばして少し触れると、それでもう何百万年にもなる。
 私は戦慄するほどの満足感を覚える。

 ***

 そろそろ消えたかなと振り返ると、なんと離れて奏がついてきている。
 見られてはいけないすがたを見られてしまったような気がする……。
 私が振り返ったのが奏にも伝わって、奏は体力の限界を超えていたようで、今にも崩折れそうになる。

 駆け戻り、肩を支える。

「奏、」私は思いついて言った。「私は絵名と瑞希には長く生きてほしいと思うよ」
 でも、それももはやどうでもいいことだ。

 奏は呼吸を落ち着けるのに時間がかかる。しかしもう時間は関係ない。
 ようやく、「わたしも」と言って目を閉じた。

 それもどうでもいいことだ。

 私の気持ちよりも大きな私の気持ちがある。
 それはなんだろう? 夢と呼んでいいだろうか?

 いつか、夢と夢が会話することはあるだろうか?
 もしあるなら、ミクは孤独ではないだろう。

 ***

 迷ったけれども、奏は二人に返してあげるべきだと思った。

 が、いくら奏が小柄でも、背負うのは大変だった。
 数十メートル歩いてみたが、かなり厳しい。

 私はぐったりした身体にリクエストする。
「なにか歌って。奏が作った曲」
 即座に奏が、セカイに最初からあった歌を歌い出す。
 それは最後まである歌だ。

 それだけのために体力を回復していたのだろうか、1フレーズだけでまた奏の体が力を失い、重みが丸ごと上半身にかかってくる。
 これはもう駄目だ、と思う。けれども
「奏が作った曲って言ったでしょ」
 と私が文句を言い終わるころ、絵名と瑞希と、二人に見守られるミクが見えてくる。

 で、ミクは立っていない。座っている。

 ミクは二人と楽しそうに会話をしている。
 ように見えた。
 まだ何か、期待していたのだと気づいた。

 私はもう面倒になって、奏を開けた場所に寝かせる。
「奏!」と絵名が叫んで、「ミクも来よっか」と呼ぶ。

 で、ミクは……従う。
 けれども喋らない。
 驚いた以上に、不快感があった。

 寝かせた奏の頭を取り囲むように四人で座る。
「行って帰ってきただけ? で、奏だけ疲れきって帰ってくるとか、馬鹿じゃないの?」
 奏を連れてきた上に、まだそんなことを言われなくてはならないのかと思う。
「帰ってこないほうが良かった?」
 と聞いてみる。キレて喚くかなと思ったら、絵名は「そういうこと二度と言わないで」と静かに言う。
 瑞希はもはや何も言わない。

 そういうものか。
 けれどもこの知識を活かす機会ももうないだろう。

「これからのことを話したい」
 横たわったまま奏が言った。
 絵名も瑞希も黙っているので、仕方なく私が言う。
「これからって、ミクがこのままだったら……」
 すると奏は「それも視野に」と言うが、また黙ってしまう。
「まふゆの本当の想いがなんなのか、これからも考えていきたいと思う」
「それ、もう必要ないよ」
 という私の言葉を完全に無視して奏は続ける。「やっぱり、話そうとし続けることが大事なんだと思う。ミクにも、これからも話し続けるよ」
 絵名も瑞希も黙っている。心底呆れ果てているのだと、なんとなくわかる。
「絵名や瑞希にも、まふゆがどう思ってると思ってるか、聞きたい」
「そういうのは私に聞いてよ!」と叫んでいた。
「いいの?」とミク。

 ***

「まふゆのことを考えてた」とミクは言う。
「私のこと、何かわかった?」
「わからない。直接言わないのが心理テストだって、心理テストはダメだって、まふゆが言ってた」
「そうだね」と言う。「言ったよ」と三人にも伝える。
「それで奏が、まふゆについて知りたいって言った。それで、ずっと考えてた。直接言えるようになるまで、考え続けた」

「雨の日のこととか、晴れた日のこととか、雨のあと晴れた日のこととか、傘をさすこととか、傘がないときどう雨宿りするかとか、晴れた日に傘があったらどうするのかとか、晴れた日に傘がなかったらどう雨宿りするかとか、セカイに傘があったらまふゆは来ていたかとか、セカイに傘がないときどう雨宿りするかとか、セカイが晴れたらまふゆは来ていたかとか、セカイが晴れていて傘がなかったらどう雨宿りするかとか、セカイに雨が降ったらわたしが傘をさすこととか、セカイに雨が降ったらまふゆが傘をさすこととか、セカイに雨が降ったあと晴れたらわたしとまふゆがどう雨宿りするかとか、セカイにまふゆが来ていなかったらわたしがどう雨宿りするかとか、雨のあと晴れた日にわたしが傘をさしたらまふゆはどうするのかとか、」

 瑞希が遮る。「あー……考えてたんだね」
「ひととおり、考えてた」ミクは答える。「でも雨は降らなかったよ」
 てっきり、喧嘩別れしたから黙ってしまったのかと思っていた。それだけではなかったのだ。

「確かにわたしは、まふゆについて知りたいとは、言った……」
「ダメだよ奏~まずは起きたことの報告がトラブルシューティングの基本でしょ」
「わたしは何もしてない……」私たちの中心で奏が言う。
「みんなそう言うんだよな~」

 絵名が「最初からまふゆのことはわからないって言ってたのに、聞いたらかわいそうでしょ!」と奏を咎める。
「いろいろ話を聞いたりすれば……何かわからないかなと思って」
「私が歌詞を書くから、大丈夫」
「それから、」とミクが言う。

 歌詞という形であれば、私には質感が伴わなくても、奏がそれを読んでくれる。
 それは私の一部を預けているということかもしれない。
 他人にとっては単なる歌詞でも、奏にとっては重要な手がかりなのだ。

「どうすればみんな幸せなのか、考えてた。わたしにはわからない。けれど、そうなったときには、そうなる。だから、ずっとそうだったんだよ」

 私と出会ってから、ミクはいろいろなことを覚えた。いつの間にか、私が知らないことも覚えている。

 ***

「奏」
 名前で呼んでみた。まだ発声に慣れないので、口に意識が集中する。
 その奏が言う。
《何かを壊せるタイミングがわかるということは、それを助けられるタイミングもわかるってことじゃないかと思う》
「ものは言いようだね」
《そういう大事なタイミングがわかって、そこで優しくできるというのは、凄いと思うけどな》
「そんなの、どこにうまく音を入れるか、みたいな話だよ」
《まさに、そういうことなんだけど。つまり、過去を別なふうに解釈できるんじゃないかという話》
「親がずっとやってきたことを、一番ひどいやり方で無に返すには、いつ消えればいいのだろうとか、考えてた」
《……とりあえず、黙っていなくなるのはやめてほしい》

 ミクが永遠の方に属していて、私たちの言葉はその使用法を踏み越えているだけで、本当のミクには届いていないのかもしれない、と考えるのは簡単だ。
 けれども現に私もミクも、セカイも変わっている。
 ここには永遠と有限性の難しい関係があって、奏のことがわからない以上に、私にはわからない。

 ただ、私の人生が特別な筆となって、こちらのごく一部を塗りつぶすことで、セカイの領域が私にはわからない仕方で満たされるといいと思う。

「どうなるかわからないよ。特に……来年とか」
《わたしには今年も来年もない。まふゆを救える曲を作り続けるだけ》
 と奏は頓珍漢なことを言う。
《でも、みんなで曲を作るのには時間がかかるから、待っていてほしい》
「私がいないほうがいい?」
《大丈夫。アレンジを分担してくれると、完成が早くなる》
 率直な答えに、ちょっと笑ってしまう。
「ふふ。じゃあ私にも『救われるべき者』以上の存在意義があるかな。一人で、一瞬で、新しい曲を作れるといいと思う?」
《……一瞬、というかね。わたしの中で鳴っている音を、そのまま配信できれば、と思うことはあるよ》
「配信?」
《そういうチャンネルがあって……つなぐと、わたしの音楽が永遠に流れてて……というか、それがわたしで、わたし自身はもう消えてる》
「身体がない?」
《そう。だけどそれだけじゃない。SF映画みたいに、脳だけとか、意識だけデータになってるとか、そういうことでもなくて……音楽だけになってる。そうすれば、もう何も考えなくていい。何もしなくていい》
「ラーメンも食べなくていいね」
《うん、楽になれる。でもそれじゃ駄目》
「人を救えないから?」
《どうして?》
「奏にはそれしかないでしょ?」
《……そうだね。単なる音楽だけでは、救えない。えななんがイラストを、Amiaは動画を作ってくれて、自分の音楽がそういうふうに受け止められてたんだと思いながら作ることで、人を救えるようになるんじゃないかと思う。雪も歌詞を作ってくれるとき、推敲するでしょ?》
「私は、自分の理想に近づけようとしているだけ」
《わたしもそうだよ。でも時間をかけて、人に聞いてもらいながら作るのが、わたしにとっては大事みたい》
「そのために食事しなくちゃいけなくても?」
《それはもう、仕方ない》

 私は限りある命との対比によって、奏は時間に区切りのない境遇と重ねて、永遠にアクセスしようとした。
 でもどちらも幻想で、何をやっても最後は死ぬ。

「最後には死ななくちゃいけなくても?」私は死という言葉を使った。
《それもたぶん、仕方ない》
「救うとか、救われるとか、馬鹿みたいだと思わない?」
《……そうだとしても、他にどうしていいかわからない》

 バーチャルシンガーがいなかった頃にもセカイはあったのだろうか?
 それはスマートフォンがなかった頃について考えるのと同じくらい難しい。
 この2つが同じように見えるのは、私がまだそれほど生きていないからだろうか。
 それとも人間だからだろうか。

 で、もう一度記憶について、自分自身に教えるように語る。

 私は一人です。/辺りは暗くて、ときどき車が通るだけです。
 車が通るたびに水溜りが照らされます。/水面は雨に打たれて泡立っています。
 (照らされたとき以外も泡立ってるんだけど、それは見えないんだね。)

 親切な人が見つけてくれました。/私は差し出されたスマートフォンを投げ捨てませんでした。

 それは私が私である以上、初めから決まっていたことで、いつ起きたとしても同じことなのでした。

 ***

《で、これが新しいラフ》とえななんが画面を共有する。
《……すごくいいと思う》
《……! ありがとう! 雪は?》
「私もいい絵だと思った。全体的に」
《なにそれ。なんかないの? 逆にムカつくんだけど》
 Kはよくて私はダメなのか?
「今Amiaがいないから、収拾がつかないと思って」
《はぁ? 収拾がつかないってどういう意味よ》
「混乱して、収まりがつかないと思って」
《だから、どうして混乱……! あのね、『収拾』って言葉の意味くらい私も知ってるんですけど? あんまり馬鹿にしないでくれる? 私が言ってるのは、Amiaがいつも宥めてくれるのわかってて当てにしてたわけ? って話よ。そもそも、あんたが不満がってたし、ミクに見せたいって言うからでしょ? 描いてるし、意見求めてるんじゃないの? それで聞いてるの。なんかないわけ?》
 ミクに見せたい、というのは……Amiaから聞いていたのか。
「言葉の意味を聞かれたのかと思った。悪かったと思う。Amiaが宥めてくれないので、えななんの怒りが収まらないと思った」
《こいつ……!》
 通知音がして、Amiaがログインした。
《カワイイ者は遅れて登場する~!》
 沈黙が降りる。
《いや、塩すぎない? アドリブ下手なの、全員? ……何? またケンカしてたの?》
《……雪、》Kが沈黙を破った。
《確かに雪は一度私たちの関係を壊したかもしれない。けれど、こうしてまだ続いている》
「K……」
《何かを壊せるタイミングがわかる人には、それを修復できるタイミングもわかるはず》
 とKはさっきと同じことを言う。
《だから、雪にはそこで修復できるようになってほしいな》
「……努力はするよ」
《いや、なにいい感じにまとめてんの?》
《どしたどしたえなな~ん? 聞かせてみ?》

 えななんが説明し、私が訂正し、えななんが補足した。

《なるほど『収拾』ねー! これはもう、仕方ない。許す!》
《はぁ!? 何勝手に許してんのよ! ていうか、そこじゃないでしょ?》
《LのアローとRのアローわかんない人じゃん》
 私は思い出して言った。随分前の話だ。
「あれ、Lの方はカタカナにするならアラウだけど、それを言っても仕方ないと思った」
《あはは……そういうの後出しするんだ?》
《雪、》Kが介入した。《ゆっくり頑張っていこう。私も頑張る》
《あ~K、そういう人に頑張ってとか言っちゃダメなんだぞ》
《大丈夫。これは私とまふゆの間のことだから》奏が本名で呼んだ。
《……そっか。確かにそうだね。二人とも、ごめんね》Amiaのほうは急に真面目になった。どうしたんだろう?

 どうして私が謝られてるんだろう?

「気にしなくていいよ。それより、」私は言う。「永遠ってあると思う?」
 誰も反応しないので、私は続けて言う。
「自分はなんでもできるんじゃないかと思って、でも本当はそんなことないよね。ミクがいるから、私も永遠になれるつもりだったけど、そうじゃなかった。人間には限界があるんだね」

《いきなり何言うかと思ったら、私は最初からそういう話してたんだけど? 話聞いてなかった?》
「私には関係ないと思った」
《あのね……何? 心境の変化でもあったわけ?》
 私は少し考えて言った。
「心境は、変化してない。認識が変化した」
《いやいや……変化してたでしょ~心境》とAmia。
《ま、良い変化だったらなんでも良いの。急に物騒な話始めないでよ! ミクが考え事してたってだけでしょ?》
「そうだね。結果的には、だけど」
《何その言い方?》
《まあまあ……雪はミクが心配だったんだよね?》
 そうなのだろうか?
「ミクが喋らないって聞いて……すべてを失ってしまった気がした」と言ってみる。
《えー……》とAmiaが露骨に引くが、今の私の言葉は嘘なのだろうか?
 むしろ、すべてを手に入れたような気分になっていたかもしれない。
《ねえ。やっぱりそこでしょ。なんか、さっきから私たちを全然数に入れてなくない?》
「何人って言えば満足?」
《はぁ?》
《あー……えななんは今回遅れてきたから、入れてもらえてないんじゃない?》
《そういうことじゃなくて……》
《ねぼすけさん組~》
《組って私しかいないでしょ! じゃなくて、あんたが徹夜に付き合わせたからじゃない! Amiaは寝たの?》
《いや、結局ミクが心配で……正直、もう限界です》
《寝てない人間がいくら集まってもまともな話できるわけないでしょ!》

 何をやっても最後は死ぬ。
 でも「何をやっても」と「最後は死ぬ」の間で、言葉の使用法を踏み越えている、ような気がする。
 本当はつながらないはずのものを、つなげている。
 来週の歌詞では、この関係について考えてみたいと思った。
 その前に、ミクに会いに行って謝らなくてはならない。

 Kが「えななんも、Amiaも、雪もニーゴの大事なメンバー。ミクも。誰一人欠けては駄目」と今更言うが、声が弱々しい。「ごめん、ちょっと落ちるね。少し眠りたい……」
 と言ってボイスチャットから落ちる音がする。
 続けて通知音がしたと思うと、テキストチャットの方に@hereで投稿がある。
 >K: ねます
 すぐに「Zzz」のリアクションがつく。「眠」「休」「(ナイトキャップ)」と増えて、どんどん賑やかになる。
 マウスオーバーしてみればすべてAmiaだ。
 えななんが「Zzz」に加わったので、私も「Zzz」を押す。

 すると、Kの書き込みの文面が変わっている。
 >K: そろそろ寝ます。おやすみ。(修正済み)

「うん。本当に寝たみたいだね。じゃあボクも寝ようかなー……二人とも、本当に今日はもう終わりね? おやすみ~」と落ちる音。
「おやすみ。ああもう……来週は絶対にコメントもらうからね? ちゃんと寝なさいよ?」とえななんも落ちて、ボイスチャットが私だけになる。
 大抵は私が最初に抜けるのに、今日はこうして最後になった。

 結局こんなふうに私が残るのか、と思う。

 切断しようかと思ったが、少し考えてミュートするだけにした。
 そうすれば後から誰かが入ってきても、私がいるのかいないのかわからなくて面白いかもしれない。ひょっとすると、えななんあたりがまた入ってきて、驚くかもしれない。
 驚くところを見てみたいが、それを眺めているのは私ではなくて、物言わぬ「雪」だ。
 その間、私は眠っていて、ミクのことを考えているから。
 でもさしあたり、その眠りは永遠ではない。